停滞前線はその名の通り停滞し、何日も雨が降り続いていた。
強く降る時もあれば、霧のような時もあったが、決して上がることはなく、それ故に外へ出ることは憚られ、家に篭もりがちになっていた。

窓の外は、相変わらずの雨。

「雨の日が続くと、ふと思い出しちゃうのよね……」

降りしきる雨を眺めながら、蘭は誰に言うともなく呟き、重くため息を吐いた。
ただでさえも憂鬱なこの天気。洗濯物は溜まる一方で満足に買い物にも行けない。家にいても湿度が高くてじめじめと蒸し暑く、汗が一向に引かず身体にまとわりついたままのようで気持ちが悪い。息苦しいような気さえしてきて、不快感は極限に達する。その上、彼女は雨に対して、あまりいい思い出はないようである。

肉体的にも精神的にも衛生的にも、長雨は歓迎されない。


そんな日が続いていたある日、珍しく雨が上がった。
しかし、空は相変わらず重そうな暗い雲が垂れ込めていて、すぐにまた降りだしそうではあった。それでも、家に篭もり続けるのには飽いていたし、溜まりに溜まったストレスを発散させるためにも、蘭は外へ出た。

買い物などの用事を済ませ、一度家に帰った蘭は、小五郎に頼まれていた郵便をポストに入れ忘れたことに気付き、再び出かけることにした。
ふと思いつき、家の中を見渡したがコナンはいなかった。コナンもまた、この長雨であまり外に出ていなかったから、おそらく蘭と同じような考えの下に出かけたのであろう。
蘭は、先程出かけた時と同じく、いつ雨が降ってきても大丈夫なようにと、赤い花びらを散りばめたような模様の傘を持ち、家を出た。



蘭が買い物に行っている間に出かけたコナンは、阿笠博士の家の前まで来ていた。
コナンもまた、雨のために家に閉じこめられがちになっていたため、気分転換のためと、探偵グッズを点検してもらうために、雨が上がった隙に外へ出たのである。
湿度が高いためか、最近、探偵バッジの調子が悪い。
他のものはそうでもないが、ついでに充電やらメンテナンスやらをしてもらおうと、博士の家までやって来たのである。
しかし、何度呼び鈴を鳴らしても、返事はなかった。扉には鍵もかかっているようである。
「ちぇっ……留守か……」
おそらく、博士や哀も、久しぶりにできた雨間に出かけたのであろう。
考えることは皆一緒だな、とため息を吐いて、コナンは踵を返した。



「あ……降ってきた……」
ポストに郵便を入れた後、散歩がてらに遠回りして家路に就いていた蘭の頬に、小さな雨粒がひとつ、ぽつ、と当たった。
それは次第に増えてきて、蘭は持っていた傘を差した。暗い空に鮮やかな色が映えたが、それとは逆に蘭の心は暗く沈んでいた。

ちょうど、蘭は帝丹中学校のグラウンドの横を通りかかっていた。今日は学校は休みだが、グラウンドにはクラブ活動をしている生徒達がいた。
雨は本降りになってきており、慌てて校舎に戻る生徒達もいたが、まだグラウンドで走り回っている生徒達もいた。そのユニフォームに、見覚えがある。
蘭は思わず、走り回る生徒達の中に、ある人物を見ていた。今はいない、その人。

「思い出しちゃうのよね……」

サッカーの試合は、雨が降っても行われる。故に、雨が降っても練習がある。
雨の中、泥だらけになって走り回る新一を、下校途中によく眺めていた。

「すっごくがんばってたんだもん……アイツ……」

どんなに探しても、グラウンドに新一の姿はない。
実際、もう中学は卒業して今は高校生なのだから、中学のグラウンドにいないのは当たり前なのだが、ここだけでなく、蘭に近い場所のどこにも、新一はいないのだ。


あの頃は、近くにいるのが当たり前だった。
『当たり前』ということは、それがなくなって初めて、
それが『当たり前』ではなかったことに気付く。
気付いてから『当たり前』が、
繰り返しずっと続くという、偶然の連続であると思い知る。
得難い時間を得られていたのだということに、
有り難いという感謝の念さえ浮かんできて、
その時間の貴重さを知るのだ。
だが『当たり前』がなくなったままである場合は……?


蘭はグラウンドから目を逸らし、歩き出した。
一緒にいるのが当たり前だった時間を、もっと大切に過ごせば良かった。
どんなに嘆いても、どんなに後悔しても、過ぎた時は戻らない。
時々連絡はあるが、一向に戻ってくる気配のない新一。
もしかしたら、もうずっとこのままなのかもしれない……。
そんな『当たり前』なんて、いらない。


俯きがちに歩いていると、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。
なんとなく振り向いて見ると、手で頭を押さえた子供が走ってくる。
蘭にはその姿が、幼い頃の新一に見えた……。


雨が降りそうな天気であっても、降っていなければ傘を持たないことが多かった新一。
天気予報が的中し、降り出した雨の中を、新一はよくかばんを傘代わりにして頭の上に乗せ、走って学校から帰っていた。
かばんなど、傘の代わりになるようなものがない時は、ああして手で頭を押さえて走って帰っていたのだ。


その姿が蘭の横を通り過ぎようとした時、蘭はハッと気付いて声をかけた。

「コナン君!?」

その声に、子供が走る足を緩め、顔を上げた。

「蘭ねーちゃん?」

阿笠博士の家から帰る途中、雨が降り出し、コナンは急いで帰る途中だったのである。
蘭はコナンに傘を差し掛けながら言った。

「傘持って出なかったのね?もう……降りそうな時は持って出なさい、っていつも言ってる……のに…………」

同じことを、いつも新一にも言っていた。
一緒にいることが当たり前だった新一。でも、今は会えないことが当たり前な新一。
懐かしい思い出ばかり思い出され、それが『思い出』になってしまっていることが妙に悲しくなって、蘭は表情を曇らせた。

「えへへ、ごめんなさい………………?」

いつもの調子で返事をしたものの、蘭の様子がおかしいことに気付き、コナンは蘭の顔を見上げたが、並んで歩いているので、見上げても蘭の表情はよく見えない。

「蘭ねえちゃん……?」

少し不安げなコナンの声に、蘭はコナンの顔を見て言った。

「コナン君も同じね」

「え?何が?」

いきなり言われて訳が分からず、コナンは聞き返した。

「雨が降りそうな時に傘を持って出ないの。新一と同じ……」

「あ…………そーなんだ…………」

自分ではあまり自覚がなかったが、確かによく蘭に傘を持って行けと言われていた。
何分にも自分のことなので、コナンは適当に相槌を打った。
そのコナンの相槌を最後に、会話は途切れ、沈黙が続いた。
しとしとと降る雨の中、ゆっくりとした歩調で歩きながら、コナンはふと蘭が沈んでいる原因に思い当たった。

(最近、蘭が沈みがちだとは思ってたけど……もしかして、オレが原因か?)

時々電話はしているが、蘭が自分に会いたいという想いを強くすることが時折あることを、コナンは知っている。
それが、今なのではないか……。
こんな風に、静かな口調で、少し遠くを見るような目をして、新一のことを話す時は概ねそうだ。
コナンは蘭を元気づけようと、いつも蘭が沈んでいる時そうするように明るい調子で言った。

「大丈夫だよ、蘭ねーちゃん」

コナンの言葉に反応し、蘭はコナンを見た。

「きっとまた、新一にーちゃんに会えるよ!」

いつもはその何の疑念も含まない、自信に満ちたコナンの言葉が力になり、『そうね』と答えて笑えるのだが、今日はどういうわけか、そんな気分にはなれなかった。

「…………ホントにまた、会えるのかな……」

「うん。きっと、ううん、絶対会えるって!」

「でも今は、会えないのが『当たり前』なのよね……だから、このままずっと会えないのが『当たり前』になっちゃうかもしれないよね……」

そう言って、蘭はため息を吐いた。

(どうしたんだ?蘭のヤツ……今回はえらく重傷じゃねーか……)

どうにも、いつものようにはいかないようである。
この天気のせいか、他に何かがあったのか、蘭の思考は珍しくマイナスに偏っているようだ。
この調子だと、何を言っても蘭が元気を取り戻してくれそうにない。
また一時的に新一に戻って、蘭に会わなければならないのか……。
だがしかし、解毒剤の試作品さえもない今、それは叶わないことだ。
でも、このまま放っておくわけにはいかない。コナンは少々気持ちに焦りが生じてきた。

『会えないのが当たり前になる』

そんな風には絶対にならないしさせない、と強く思っていても、それを示す証拠はどこにもない。
どうすれば、蘭を安心させられる?
……今現実に、新一はコナンとして、蘭に会っている。
しかし蘭にとっては、会っているのはコナンであり、新一ではなくて……
でも、新一はコナンで、コナンは蘭に会っていて……

早く蘭に元気づける言葉をかけなければという逸る心とは裏腹に、焦りのためにうまく考えがまとまらない。早くどうにかせねばと思えば思うほど頭の中がこんがらがって、コナンは思わず叫んでしまった。

「新一にーちゃんが会えないなら、ボクがずっと蘭ねーちゃんに会うから!ずっと会ってるから!」

唐突な叫びに、蘭は驚いて目を見開き、コナンの顔をしげしげと見た。
コナンの瞳からは、自分をなんとかしようと必死になっていることが痛いほど伝わってきて、蘭は心の中が温かいものでじわじわと満たされていくのを感じた。

(何、訳の分かんねーこと言ってんだ、オレ……!)

蘭があまりにもじっと見つめてくるので、コナンはハッと正気に戻り、少し赤くなって蘭からふいと目を逸らした。
いつの間にか雨がほとんど止んでいたのを幸いにと、コナンは蘭の差す傘の下から出、蘭から少し離れた。

「ふ……うふふふふ……」

そんなコナンの背中を見ながら、蘭は急に込み上げてきた笑いを堪えきれず、声を漏らして笑った。
コナンはばつが悪そうに、ちらと振り返りるだけで蘭の様子を見、また背中を向けた。

あんなに取り乱してしまうくらい、コナンに心配をかけさせてしまっていたことに、蘭は今更ながら気付いた。
と同時に、コナンがどれだけ自分のことを思っていてくれるのかを知った。
そして、そこまで思ってくれるコナンの心の広さに対し、自分は自分のことだけで落ち込んでしまっていた。
そのことが、妙にちっぽけに思えてきて、蘭は急に恥ずかしくなった。


確かに、今は会えないのが『当たり前』だ。
だが、今はコナンがいつも側にいてくれるという『当たり前』がある。
だからきっと、会えない『当たり前』を乗り越えて、また別の『当たり前』に遭遇することができるだろう。


蘭の気持ちを表すかのように、いつの間にか重い雲が流れて行き、晴れ間が出てきた。
相変わらず、コナンは背中を向けたまま少し離れて歩いている。
その足下の水たまりが揺れ、そこに映った植え込みに咲く鮮やかな紫陽花と青空も揺れた。
コナンが通り過ぎた水面が静かになった瞬間、蘭はそこに映った空を見て、慌てて振り返り空を見上げた。


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