願い事が終わる時         作/草紙剥



7月7日は『雨の特異日』と言われていたこともあったほど、晴天に恵まれない日である。
今年も、それは例外ではなかった。

日中から、時折小雨が降っては止みを繰り返し、夜になっても空は雲で覆われたままだった。
湿り気を帯びた生暖かい風が、笹飾りを揺らして音を立たせ、次に長い髪を浮き上がらせた。
通り抜けていく風を感じながら、蘭とコナンは黙ったまま、曇天の夜空を見上げていた。


「……今年もありがとう、コナン君」

沈黙を破って、蘭は傍らにいる人物に語りかけた。

「今年も星は見えなかったけど……でも……もう大丈夫だから……」

コナンは何も言わずに黙ったまま、蘭のか細い声を聞いていた。

「何年も付き合わせちゃって……ゴメンね……」


新一がいなくなって、もう何年経ったのか……。
年に一度、離ればなれの恋人が逢瀬を果たすという、この夜だけは、一人で過ごすことが耐え難かった。

織り姫と彦星の話が、ただのおとぎ話だということは知っている。
それにかこつけた、遠距離恋愛の話が多数あることも知っている。
実際は、七夕でも会えない恋人たちがたくさんいるだろうこともわかっている。

それでも、この日は傷心を感じずにはいられなかった。
妙にそのことばかりを考えてしまい、吐きそうになるほど胸が締め付けられて苦しい。
そんな気分を紛らわせてくれていたのが、コナンの存在だった。

最初に家で笹飾りを作ったのは、コナンが小学校で短冊を書いて持って帰ってきた時だった。
低学年を過ぎると、学校で短冊を書くことはなくなったが、笹飾りを作ることはすでに習慣になっており、家で書いて飾り付けるようになっていった。
やがて、願い事は書かれなくなり、今はただの『飾り』として、色とりどりの短冊を飾るだけになった。

今日も、蘭とコナンは一緒に笹飾りを作った。
中学生になってから毛利家を出たコナンは、近くのアパートで独り暮らしをしている。
それでも毎年、この日は必ず毛利家にやって来た。

どうしても一人で過ごすのが嫌で、蘭はコナンが毛利家を出る前の年の七夕の短冊に、願い事を書いた。

『これからも七夕は、コナン君が一緒にいてくれますように』

それを見て、コナンは驚いていたが、その時は特に何も言わなかった。
蘭のその願いを聞き届けてか、コナンは七夕になるとちゃんと毛利家に現れ、毎年必ず蘭と共に七夕の日を過ごしていた。

でも、それももう終わりだ。
本当は、七夕の夜が晴れて、コナンと共にベガとアルタイルを見ることが出来たら、もうやめにしようと思っていた。
しかし、七夕の夜空はいつまで経っても雲で覆われていて、蘭が決意をしてからすでに数年が経ってしまっていた。

……天候に気持ちを任せるのはずるい。
もう、終わりにしよう。

自分の我が侭で、年々多忙な身となっていくコナンを、これ以上振り回すわけにはいかない。

「コナン君も、もう子供じゃないんだし。毎年笹飾り作るのも変よね?」

コナンが沈黙したままで、気まずさを感じた蘭は、わざと明るい調子で言った。


……自分の役目は、ここまでなのか。

コナンは、知らず溜息を吐きそうになったが、それを飲み込んでこらえた。
蘭がどうして、毎年七夕の時だけ、自分と過ごしたがったのか。その理由は知っている。
その原因となったのは、この自分だから……罪滅ぼしにはならないだろうが、そのつもりでコナンは毎年、どんなに忙しくても七夕の日だけは、蘭の元へ駆け付けた。

しかし、それも終わろうとしている。
蘭は『もう大丈夫だから』と言ったが、本当に大丈夫なのかどうかは怪しい。

だがコナンも、その辺りのことを気にして過ごす日々を終わらせなければならないと思っていた。
蘭が新一のことを吹っ切れるのかどうかはわからない。わからないが、コナンにはもうどうすることもできないのだ。
新一に戻る術はすでになく、他の誰かに告げることさえ許されず、『江戸川コナン』として生きていかなければならない状況。
できることなら、蘭には『工藤新一』のことでもう思い悩んで欲しくなかった。いっそのこと、忘れてあしらって欲しいくらいだった。

蘭がそんなことをアッサリとやってのけられない人間であることは、知っている。
しかしもうこれ以上、中途半端に蘭の心に触れるのは、蘭のためにも良くないのだ。
側にいたいけど、側にいてはいけないのかもしれない。
これから、蘭が……そして自分が、前へ進むために。


「うん。そうだね」

コナンは、自分の気持ちに踏ん切りをつけるように、はっきりと言った。

「蘭姉ちゃんも、もう『いい歳』だもんね? こんな子供みたいなこと、もうやめにした方が…………!?」

冗談っぽく笑いながら、蘭の顔を見たコナンは、予想外の蘭の反応に一瞬言葉が詰まった。
蘭は、今にも泣き出しそうな顔をして俯いていた。
その顔は、今まで何度となく見てきた、新一のことを思い出している時の顔とはまた違うように思えた。


これでもう、コナンと会えなくなるわけではない。
実際、コナンは時々毛利家に来ることがあった。
離れて暮らしているとはいえ、コナンの住む場所はすぐ近所であるため、その辺で会ってそのまま食事を一緒に取ることもあった。
また、小五郎の手伝いで、事務所に来ることも結構あった。
それなのに、コナンがこの『七夕の約束』を終わらせることを素直に認めた瞬間、急激に蘭の胸に込み上げてくるものがあった。

また一人で、新一のことを想って、その痛みに耐えねばならなくなる……ということが、その理由ではない。
しかし蘭には、込み上げてくるものの正体が何なのか、わからない。
ただ、それを吐き出してしまわないように、俯いて堪えるのが精一杯だった。


「あのさあ!」

コナンが不意に元気な声を出したのに驚き、蘭は顔を上げてコナンを見た。

「子供みたいなことだけど……僕は笹飾り作って、蘭姉ちゃんとこうやって過ごすの、結構楽しかったんだよ?」

蘭は不思議そうにコナンを見ている。
その顔からは、さっきの泣き出しそうな表情が、一瞬消えたように見えた。

「蘭姉ちゃんはもういいのかもしれないけど……僕は、また来年もこうやって、笹飾り作りたいなぁ」

コナンは、風に揺れる短冊を一枚取ると、ポケットから取りだしたペンで、何やら書き込んだ。

『これからも 蘭姉ちゃんと一緒に 過ごせますように』

蘭はコナンの書いた文字を、驚いて見た。
すぐにその意味が把握できなくて、何度も何度も読み返してしまった。
次第に、胸に込み上げてきていたものが、消えていくような感覚に襲われる。

「叶わないかな?」

コナンが少し不安そうな表情で蘭の様子を窺うと、蘭は微笑を浮かべて言った。

「どうかしら。叶わなくはないんじゃない?」

「本当?」

コナンはホッとして、頬を緩めた。





ずっと動いていないと思っていた心は、時の流れと共に動いていた。
しかし、その動きは本当に緩やかであったため、動いていると気付いていなかった。
今もまだ、2人は気付いていないのかもしれない。

あの時、どうして咄嗟にあんな願い事を書いたのだろう……?
あの時、どうして短冊を見て、微笑が漏れたのだろう……?

それはきっと、未来を発見できると感じたから。
遙か遠くに輝く光が、雲の合間に見えたから。

無意識に、それを感じ取っている。
理屈ではない、感情。
それを2人が意識できるのは、もう少しだけ先のこと。












2003.7.7