真珠の森



闇夜が、灼けていた。
遙か彼方、その一部が、本来ならば朝暮にしか染まらぬ色に染まっている。
いや、厳密に言えば、その色と同じ色ではない。
空全体が、徐々に移り変わっていくそれとは違う。
全天の色は、あくまで夜の色。
その一部分だけが、焦がされていた。

「ああ、また……」

遠く、紅に染まった闇を見、少女は呟いた。

「あの方角だと、オクホの方のようじゃのう」

いつの間にか少女の傍らに立ち、同じように彼方の空を見ながら、恰幅のいい初老の男が言った。

「オクホ……。
 この前はトリヤで……その前は、リゼン……」

それきり、2人は黙り込んだ。
2人とも、同じことを考えていたが、口に出すのは憚られた。

ここからは、空しか見えない。
この辺りで、最も見晴らしの良い場所ではあったが、なだらかなこの地方では高くから遠くを見渡せるような場所はない。
故に、朱に……さっきよりも鮮やかな色に、染まった空の下がどうなっているのか、2人がいる場所からは見えなかった。
だが、見えなくても知っていた。
オクホは、トリヤよりも遠くにある。
リゼンよりも、トリヤは近い。
自ずと生まれる懸念。

「ワシらが今できることは、何もない。
 明日に備えて、今日はもう休もう。
 朝には、たくさん客が到着することになるじゃろうからのう」

そう言って男は踵を返したが、少女がついて来る気配がなかったので、振り返った。
手に持ったランプの灯りが揺らめき、少女の顔を照らす。
少女は、まだ彼方の空を見つめていた。

「……ここは、そう簡単には同じようにはならんじゃろうよ。
 ハイドの森の聖域は、他の森とは格が違うんじゃから。
 もしもの時は聖樹が守ってくれるじゃろう。
 あの時、蘭を守ってくれたように」

男は、少女――蘭の心中を察し、少しでも安心できるように、背後の闇を指してそう言った。
だが、それで本当に蘭が安心するとは思っていない。
それでも、気休めに何かを言わずにはいられなかった。

「………………が……」

「ん?」

空を見つめたまま、蘭は呟いた。

「ユニコーンが、生きていれば……」

それを聞き、男は小さく溜息を吐いた。そして次に何か言おうと口を開きかけたが、やめた。
今は、この少女の儚い夢を、せめて打ち砕くことはすまい。

蘭の肩に、あたたかいものが触れた。
振り向くと、男は蘭の肩に大きな手を乗せ、穏やかな笑みを浮かべていた。

「博士……」

博士、と呼ばれた男は、蘭をじっと見て頷いた。
本当は、博士が何かを言いかけたこと、そして何を言いたかったのか、蘭にはわかっていた。
しかし博士は、あえてそれを言わないでおいてくれた。
蘭もまた頷き、2人はその場所を離れた。




ハイドの町は、その近くに広がるハイドの森の恩恵を受け、この辺りでは最も人の多い町である。
町からいちばん森に近い一角に、幾つかの建物がかたまって建っている場所があった。
その建物群のすぐそばに、大きな屋敷がある。ここが、男――阿笠博士の住まいであり、蘭の住まいでもある。

温厚な性格の博士は、親を亡くすなど、様々な事情があって帰るべき場所を失った子供を引き取って育てていた。蘭もその一人であり、蘭以外にも何人か、博士の屋敷で暮らしていた。最近では、子供だけでなく、戦火に追われた人々を一時的に保護したりもしているから、屋敷だけでは場所が足りず、そのための施設も作ってしまったのである。

元々、博士はハイドに住む子供のない富豪に、孤児院から引き取られた養子であった。
それ故、身寄りのない子供を放っておけなかったのである。
博士は自称“発明家”で、町の皆の役に立つようにと様々なものを作っては、町の人に使わせていた。
もっとも、それが本当に役に立っていたかどうかは疑問ではあるが……。
それでも、まれに傑作が出ることがあり、それをたくさん作って他の町にも持って行き、売ることで生計を立てていた。
そんなことをしなくても、博士には膨大な遺産があったのだが、博士はそれに甘んずることはなく、質素な生活を送り、困っている人々に多くを施した。


外から屋敷に戻った博士と蘭は、就寝前の挨拶を交わしてそれぞれ部屋に戻った。
蘭には、個室が与えられていた。
個室と言っても、元は物置部屋であり、ベッドとクローゼットと小さな机と椅子だけの、狭い部屋である。だが、蘭にとっては十分すぎるほどの部屋だった。

部屋に入り、手に持っていたランプを机の上に置くと、蘭は椅子にどさりと座り込み、ふぅ、と息を吐いた。
さっき見た、灼けた夜空が脳裏に蘇る。
あれは……あの空の下は、火の海。それもかなり広範囲にわたったものであろう。
オクホの町が、燃えている。おそらく、オクホの森まで……。
つい5日ほど前に、トリヤが燃えたという。その前は、リゼン。
連続して起こる火事。それは、自然に起きた火ではない……。

大火事があった後、ハイドを通った旅人に聞いた話では、黒い甲冑を身につけた兵士がどこからともなく現れ、町を襲ったのだと言う。一瞬にして多勢の兵が現れ、そこらじゅうに火を放ったのだそうだ。
町中は混乱し、逃げまどう人々でごった返したため、それだけのことしかわからなかったが、とにかく、その旅人はうまく逃げることができた。

他にも何人か、逃げてきた人々がいて、今も屋敷のそばに設けられた施設にいる人もいる。
そういった人から聞く話もやはり同じで、何が起こっているのか把握している人は一人もいなかった。
わかるのは、ただ一つ……黒を身につける兵は、暗黒からの使者であること……。

蘭は、不意に思い付いて椅子から立ち上がり、クローゼットを開けた。
その中の、いちばん隅に立てかけてある、古い本を取り出す。
クローゼットを閉め、再び椅子に座ると、その本を机の上に置いた。
その表紙には、壮大な城を背景に、人物が描かれている。人物の傍らには、白い馬が描かれていた。
いや、馬ではない。その額から伸びる一角……。

「ユニコーンが、生きていれば……」

蘭は、その絵を指でなぞりながら、先程あの空を見ながら言ったのと同じことを呟いた。

「暗黒を、消し去ってくれるだろうに……」



その本は、子供のための絵本だった。
表紙には「まほうつかいのくに」と、飾り文字で書かれてある。
蘭は、小さい頃からこの絵本が好きだった。

元々は、博士の本棚にあったものらしい。
自分では全く覚えていないのだが、蘭がこの家に来た時……もう10年以上も前のことだ……勝手に博士の本棚からこの本を引っ張り出して、博士にせがんで読んでもらっていたらしい。
確かに、物心ついた頃には、すでにこの本はお気に入り中のお気に入りで、そんなに好きならと、博士が蘭にくれたのだった。

内容は、おとぎ話だ。
むかしむかし、この世界に君臨していた暗黒の魔王を、ユニコーンを従えた魔法使いが倒し、平和な国を作ったのだという。
ユニコーンは、主である魔法使いの魔力を何倍にも強める力を持つ。
揺らぐことのない意志と勇気ある魔法使いを主と認め、ユニコーンが助力したおかげで、魔王を倒すことができたのだ。
その後、魔法使いは国の王となり、森の奥に城を築き、そこからその魔力をもって世界を平和に治めたという。
そこで物語は、めでたしめでたしで終わっている。

蘭は、平和な王国の様子が描かれた最後のページが好きだった。
森の中に聳える城。森の周りに広がる活気に満ちた町。森の恵みを受ける人々。
このページを見ると、不思議なほど安らかな気持ちになるのだ。

だが今、現実のこの世界は平和ではない。
突然現れたという、黒い甲冑の兵士……それを、蘭は暗黒の魔王のしもべだと思わずにはいられなかった。
もう、16にもなっておとぎ話と重ね合わせているなんて、子供じみた考えであることはわかっている。それでも蘭は、どうしてもおとぎ話と切り離して考えることができなかった。

暗黒の兵は、強大な魔力を持っているため、普通の人間では歯が立たない。
普通の人間の中にも、占術師や精霊師など、少しの魔力を持った者はいる。
だが、どんなに強い力を持っていても、人間だけの力では勝てないのだ。
だからまず、ユニコーンがいなければならないと、蘭は考えるようになった。

昔は、どの森にもユニコーンが住んでいたと聞いたことがある。
何年か前までは、どこの誰がどの森のどの辺りでユニコーンを見た、という噂話が出ることもあった。
しかし、今ではそんな話は全く聞かなくなった。
もう、この世のどこにも、ユニコーンはいないのかもしれない。

蘭は、本を閉じ、ランプを消すと、ベッドに潜り込んだ。

例えユニコーンがいたとしても、おとぎ話のような能力があるかどうかもわからない。どちらかと言えば、そんな能力はなく、森を住処とするただの獣である可能性の方が高い。

わかっている。そんなことは……おとぎ話はおとぎ話であり、それ以上の何者でもないことは、わかっている……。

どうにもならない事実。近づいてくる現実。
それらから逃げるために、蘭は目を閉じた。





その夜、蘭は夢を見た。
それは、幼い頃から何度となく繰り返し見ている夢である。
おとぎ話の夢。
鮮やかな緑が繁る、深い森の奥に、突然姿を現す城。
その中は、豪華な装飾が至るところに施された、きらびやかな空間。
日が暮れ、暗くなると、勝手に灯る明かり。城の天井は、どこを見ても大きなシャンデリアが吊り下げられているため、城の中はまるで昼間のように煌々としている。
壁に飾られている絵は、生きているかのように動いている。
長い階段も、労力をかける必要はない。それ自体が動いているため、一段足を踏み出すだけで次の階へ行くことができる。

そんな魔法の力に満ちている中に、蘭はいた。
誰も支えていないのに、ポットが自ずと傾き、カップに紅茶を淹れる。
そのカップを手に取り、蘭は窓の外を眺めていた。
空を飛んでいるのは、鳥ばかりではない。
荷物を乗せた絨毯や、人もほうきに乗って飛んでいる。
夜でもそれぞれが眩い明かりで闇を照らし、あちらこちらへ飛んで行く。
その明かりがひとつ、蘭の方へとやって来た。よく見れば、それはほうきに乗った蘭の友人であった。
蘭は紅茶を飲み終えてカップをテーブルに置くと、窓を開けて外に出る。笑顔で手招きする友人の後ろに蘭も跨りしがみついた。勢い良く床を蹴って飛び立つと、ほうきは蘭たちを遙か彼方へと連れ去って行った。

心地よい清涼さを運んでくる夜風の中を駆け抜けながら、夜空に煌めく無数の星々と、同じように地上に散った家々の明かりを眺めた。
と、不意に目の前が赤くなる。
大火だ。
燃えるはずのない森が、業火に包まれている。
蘭は表情を引きつらせた。が、前に乗っている友人はそんな蘭を安心させるかのように、振り向いて笑った。
ほうきは燃え盛る森の上空を旋回する。嫌な熱気が焦げた臭いと共に立ち上ってくる。
友人が何かを叫んだ、と蘭が思った瞬間、急に湿った風が吹き付けたかと思うと雨が降り出し、それはすぐに豪雨となって森へと降り注いだ。
みるみるうちに火が小さくなっていく。その様子を見て、蘭は安堵して表情を緩めた。振り返った友人と蘭は微笑み合い、鎮火した森を後にした。


夜明け前から森に住む鳥たちは目覚め、朝の支度に忙しそうにさえずり始める。
まるで合唱のようなその声で、蘭は目覚めた。朝日が昇って辺りを温かい色に染めている。
蘭はふと、昨夜見た朱に染まった夜空を思い出した。
あんな恐ろしいことは、もう起きて欲しくない……。
空が朱に染まるのは、こうして空全体が優しく染まるだけでいい。
しばらく、ぼんやりと色が移り変わって行く空を見つめていると、時間を知らせる鐘の音が聞こえてきた。

「いけない!今日は忙しくなるって博士が言ってたのに、早く支度しないと!」

蘭は慌てて身支度を整えると、太陽の光が差し込み始めた自室を後にした。




(未完)


2003.11.25



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サイトを運営する者は、一度はやってみたくなる憧れの「キリ番リクエスト」。
自分にその力量がないことはわかっていたので、ずっとやらずにいたものの、
やっぱり一度やってみたくて、実行した時にいただいた「おとぎばなし」というお題。

……案の定、終わらせることができませんでした……。_| ̄|○

未完のままサイトを閉鎖しなければならなくなり、
その後、PCが壊れたりしたこともあって、リクエストしていただいた方のメアドも
わからなくなってしまい、謝罪のお知らせもできなくなってしまいました。

なので、この場で謝罪を述べておきます。
こちらからリクエストさせておきながら、ちゃんとお応えすることができず、申し訳ありませんでした。

この物語のネタは、未だに頭の中に残ってはいますが、今後吐き出すことはないと思います……。
なんというか……壮大にしすぎた、よね('A`) これだけでほんの触りなんだもの。
既存の「おとぎばなし」パロにしておけばいいのに、オリジナルな世界でやろうとしたのが
どうみても失敗の原因ですね('A`)
実は書いている途中で、これだけオリジナルな世界を作ってしまったことで、
それを「二次創作」という扱いにすることについての意味や意義に疑問を持ってしまったこともあって、
この作品については続きを書く気力がもう本当にありません。
書くなら、登場人物などの固有名詞を変えて、本当に「オリジナル」として書いた方がいいよな、
という気持ちの方が、今も強いです。(それでも書きませんが(;´Д`))

既存の「おとぎばなし」パロで短いのを書いて、それをリクエストの作品ということにしようかとも
考えたのですが、現在のワタクシにはもうコ蘭を書くことができません。
キリ番リクエストをやる時に、ちゃんとできるのだろうかどうだろうと思ってはいたのですが、
やはり、身の程知らずで終わってしまいました……。

(2007.10.30)