雨の印象   草紙剥/作





失って初めて気づいた感情。
こんなにも…………大きなものだったなんて……。





それは静かに雨が降る夜。
1日の用事がすべて終わり、床に就く前の出来事だった。

いつになく神妙な顔をしていることに気づいて、何気なく。
本当に、いつもそうするのと同じように、何気なく聞いた。

「どうしたの?もう寝ないと、明日も学校でしょ、コナン君?」

すると彼は、思い詰めた瞳を彼女に向けて、一呼吸置くと決心したように口を開いた。

「あのね……蘭姉ちゃん。ボク、おとうさんとおかあさんと一緒に暮らすことになったから、
 アメリカに行くことになったんだ」

「ええっ!?」

思いも寄らなかった返答に、思わず声を上げてしまった。
でも、次の瞬間、それは彼にとって“朗報”なのだと気付き、彼女は笑顔を作って彼に答えた。

「よ、よかったじゃない、コナン君!やっとおとうさんとおかあさんと一緒に暮らせるんだ…………
 ホントによかったね!」

「おいコナン、それ本当なのか!?」

部屋にいた小五郎に聞こえていたらしく、驚いた様子で部屋から出てきてコナンに聞いた。

「うん…………今日連絡があったんだ……博士のところに」

「そうか……よかったな、コナン!で、いつ行くんだ?アメリカには」

「………………3日後」

「!」

(3日後!?そんなに早く…………?)

「ええっ!?えれぇ早いじゃねえか!」

「急に決まったんだって……」

あまりにも急な話すぎて頭がついていかなかったのか、蘭は軽く目眩を感じた。
その後、小五郎はコナンといろいろ話していたが、目眩がするせいで蘭はその内容がよく聞き取れないでいた。

結局、今日は遅いからとにかく寝ようということになり、蘭も部屋に戻り布団に入ったが…………
その夜、蘭は眠れなかった。

窓の外から聞こえてくる静かな雨音が、妙に耳について離れなかった。




翌日から、コナンは毛利家を出るための準備にかかった。
荷物をまとめるのはもちろん、小学校に転出の届けを出したり、何かとやることは多い。
小五郎や蘭だけでなく、阿笠博士もそれを手伝って、慌ただしく時間は足早に過ぎていった。

そして、その日はあっという間にやってきた。

毛利探偵事務所に、コナンの母である“江戸川文代”がコナンを迎えに来た。
小五郎や蘭に手厚く礼を言い、コナンを見送りに来ていた少年探偵団の面々にも礼を言う。
コナンも皆に挨拶を言うと、急な出来事に気持ちがまだ追いついていない元太、歩美、光彦は、
それぞれに思いの丈を述べ、悲しみを露わにしていた。

最後にコナンは、蘭に向かって言った。

「蘭姉ちゃん、今までありがとう……元気でね」

「うん……コナン君も、元気でね」

交わされた言葉は、意外な程短かった。
蘭はにっこり笑って、それ以上何も言わなかったので、コナンは文代が乗ってきたレンタカーに乗り込んだ。
ドアが閉まるのと同時に車のエンジンがかかり、コナンはあっという間に皆の前から姿を消した。

「来た時も突然だったけど、いなくなる時も突然でしたね……」

光彦がぽつりと呟いた。

「うん……でも……また……会えるよね……?」

歩美は、次から次へと湧き出てくる涙をハンカチで拭きながら、震える声で言った。

「会えるにきまってんだろ!会いたかったら、会いに行けばいいんじゃねえかよ!」

元太の声は、寂しさを吹き飛ばすかのように空に響いた。






元太の一言で少し元気になった探偵団は、毛利探偵事務所を後にし、帰っていった。
小五郎はそのままタバコを買いに行くと言って、ふらふらと歩いていった。
蘭は一人、階段を昇り、玄関のドアを開け家に戻った。

ドアを閉めた瞬間、静寂が蘭を襲う。
耳が痛くなるような感覚が、ぎゅうと身体を締め付けた。
一人で家に帰ってくることなど、今までに数え切れないくらいあったというのに。
こんな風に感じるのは、やはりコナンがもうここには帰らないという儀式を、たった今、行ってきたせいか。
部屋を見渡し、感じる違和感。
コナンがいたという痕跡が見あたらないくらい、コナンの持ち物や使っていたものは全てなくなり、置いてあった場所がぽっかりと空いていた。

「ホントに……行っちゃったのね…………」

コナンがいつも座っていた場所に膝をつき、そっとそこに手を置いてみた。

「コナン君…………」

もうここに彼は戻ってこない。
でも、寂しいとか悲しいとかいう感情があまり湧き上がっては来ない。
それは急な現実をまだ受け入れられていなかったからであった。
しかし現実は現実。
その狭間にいる蘭は、ただ呆然とそこに座り込んでいた。










コナンがいなくなって一月ほど経っても、その空白が埋まることはなかった。

蘭は学校が終わり、放課後の部活動が終わってもすぐに家には帰らず、ぶらぶらと遠回りして時間をかけて家に帰ることが多くなった。
コナンのいない家に帰って、心に空いた穴を改めて思い知らされるのが嫌で、自然に足は家とは違う方向に向いてしまう。
そのことに初めて気づいたとき、蘭はコナンを皆で見送った日、小五郎がそのまま家に入らずにタバコを買いに行くと言って出かけたまま、なかなか帰ってこなかったその理由を知った。

小五郎はわかっていたのだ。
いくらコナンのことを居候だと邪険にしていたとはいえ、その存在が消えたときに何が起こるのかを。
未だに小五郎にもその感情は残っており、家を空けることが前よりも多くなっていた。

すっかり辺りは暗くなり、ぽつぽつと雨が降り出した。
傘を持っていなかった蘭は、仕方なく家に帰った。
今日も小五郎は家におらず、あの日と同じように蘭1人だけの家。
あの日、家に入ったときに見た、コナンの荷物が置いてあった場所にふと目をやった。
あの時は、そこが心の空白を象徴するかのように、ぽっかりと空いていた。
しかし今は、もうそこには別の荷物が置かれ、空いた場所はなくなっている。
それなのに……蘭の中の空白は埋まらない……。


雨は本降りになったようで、窓の外から雨音が聞こえてくる。
静かな雨音に耳を傾けていると、あの夜のことが蘇る。
コナンがここを去ると言った、あの夜のことを。
あの時、蘭はコナンからそのことを聞き、笑顔を作って喜びの言葉を口にした。
でも、それは本心ではなかったのだ、と……こんな雨の夜、蘭はいつも思ってしまう。
本当は、咄嗟に口に出そうになった言葉があったのだ。
でも、そんなただ寂しさから来るだけの、まるで子供のような我が侭など言えるはずがない。

「でもやっぱり……」

蘭はふと呟いた。

「寂しい……な……」

胸の内に抑えきれなくなった感情を、言葉にしてみた。

「ひとりでいなきゃいけないなんて……」

新一がいなくなるのと入れ替わりで、現れたコナン。
だから、コナンがいなくなったら、新一が帰ってくるんじゃないかと蘭はなんとなく思っていた。
過去に、コナンが新一なのではないか、と疑ったこともあった。
だから今度は、コナンと入れ替わりに、新一が戻ってくるんじゃないか、という淡い期待があったのだ。
しかし、コナンが行ってしまっても、新一は帰ってこない。
それどころか、電話も掛かってこなかった。

コナンが来るまでは、新一がいつもそばにいて。
新一がいなくなってからは、コナンがいつもそばにいてくれた。
だが今は、蘭のそばには誰もいない。

「結構大丈夫だと思ってたけど……」

ふっ、と嘲笑を漏らして、蘭は呟いた。

「わたしって、ひとりになっちゃったら全然ダメね……」

蘭は立ち上がり、窓を開けて外を見た。
街灯に照らし出された雨の軌跡を、ぼうっと眺めていた。




………………。




何か音が聞こえる……?




ぼんやりとした意識に飛び込んできたのは、空気を震わす低い音。
次の瞬間、蘭はハッとして自分の部屋に飛び込んだ。
急いで鞄から携帯電話を取り出す。

「もしもしっ!?」

慌てて電話に出る。
聞こえてきた音は、携帯に着信した振動音だった。

『……蘭か?オレだよ』

一呼吸置いて耳に入ってきたのは、久しぶりに聞く、しかし聞き慣れた声。

「新一?新一なのっ?」

思わず蘭は聞き返した。

『ああ、そうだよ』

「し…ん……いち…………っ!!」

聞き返さずともわかってはいたが、それでも確かめずにはいられなかった。
確認できた瞬間、蘭はその場に座り込んでしまった。
瞳からは、無意識のうちに大きな雫がこぼれ落ちていた。

『蘭?どうした?大丈夫か?』

突然、涙声に変わってしまった蘭に驚き、新一が心配そうに聞いてくる。

「うっ……もうっ……全然電話してくれないんだからっ……!」

蘭は必死に声を整えながら新一に答えた。

「わたし……わたし…………寂しかったんだから……っ……!」

蘭はいつも気丈にふるまい、決して自分の弱いところを見せようとしない。
しかし、今回ばかりは、心の中に蓄積していた感情を隠すことができなかった。

『…………何か、あったのか……?』

いつもと違う様子に、新一の声のトーンが下がる。
電話の向こうで、蘭が答えてくるのを新一が静かに待っているのが伝わってきて、蘭は少しずつ溜めんこんでいたものを吐きだした。

コナンがいなくなったこと。
それにより、心の中に空白ができていること。
それが寂しさから来ていること。
側に誰もいなくて、どうしようもなくなっていること。
そして
新一に帰ってきて欲しいということ……。

新一は、時折相槌を打ちながら蘭の話を静かに聞いていた。
決してこんな弱音を吐くことのない蘭が、ここまで本心を露わにしている。
それほどまでに、蘭は精神的に限界に来ているのだと感じながら。
それでも今日は……言わなければならないことがある……。

『そっか…………大変だったんだな……蘭も……』

蘭の話が終わった後、今度は新一が話し始めた。

『あのな、蘭。今日オレが電話したのは、蘭に言わなきゃならねぇことがあったからなんだ』

「え?」

蘭は、耳に神経を集中させた。

『実はな……ずっと“やっかいな事件”を抱えてるって言ってたけど……
 それが解決するかもしれねぇんだ』

「ホントなの!?」

電話のたびに、口癖のように新一が言っていた“やっかいな事件”。
どんな事件なのか全く想像もつかなかったが、ついにそれが終わる……かもしれない……。
そうしたら、新一は……。

『ああ……でも、それはうまくいけば、の話だ。
 うまくいけば、オレはそっちに帰ることができるけど……』

新一は、そこで言葉をいったん切ると、深い呼吸をひとつして言った。

『うまくいかなければ、帰れねぇかもしれねぇ』

「!」

蘭の息が、一瞬詰まった。
“帰れねぇ”って、どういうこと?
蘭は少し混乱しかけたが、新一の話に耳を傾けた。

『ずっと電話できなかったのは、事件が大詰めに来ていて忙しかったからなんだ。
 これからは、もっと忙しくなるから、多分もう電話できねぇと思う。
 次に電話できるのは、帰れるようになった時だな……』

“帰れるように”……。
大丈夫。
きっと、きっと新一は、
これまでいつもそうだったように、
無事に事件を解決して、
きっと帰ってくる!

「わかったわ。待ってる。待ってるから……わたし……新一が次に電話かけてくれるのを……!」

蘭は強く新一にそう言った。
それは自分にも言い聞かせているようでもあった。

『……………………ああ…………』

蘭の言葉の強さとは対照的に、新一の返事は曖昧だった。
……曖昧にしか、言うことができなかった。

『じゃ……もう切らなきゃなんねぇから……』

「え?もう?」

本当は、切りたくない電話。
お互いにそう思っていたが、切らなければ何を言ってしまうかわからない。
…………これ以上、心の奥底をさらけ出すことは、してはいけない。

「わたし、ずっと待ってるからね!新一……!」

どうかそれだけは、忘れないでいて……!

『…………蘭、元気でな』

その言葉を最後に、新一からの電話は切れた。

「新一!!」

思わず蘭は叫んだが、それは新一の耳には届かなかった。






そしてその後、新一から電話がかかってくることはなかった。







新一からの電話があった後、蘭は少し元気を取り戻し、家にも早く帰るようになっていたが、時間が経つにつれ、蘭の中の不安は再びその姿を膨らませていった。
そしてついには、新一からもらった携帯電話がつながらなくなってしまった。
あれから、3ヶ月ほど経った頃だった。
当然、家の電話にも新一からの電話はない。
連絡が途絶え、携帯が使えなくなった……。
それが何を意味するのか。
蘭は見て見ぬ振りをするように、ずっと受け入れることを拒んでいた。


“帰れねぇかもしれねぇ”
確かに、新一はそう言ったけど、それはどうしてなの?
どうして帰れないの?
でも……でも、どこかで生きてるんでしょ?
そうじゃないことなんて……絶対……ないよね……?




大丈夫だよ、蘭姉ちゃん




声が聞こえた気がして、蘭は伏せていた顔をハッと上げた。
蘭がこんな風に落ち込んだとき、そばにいて励ましてくれたあの声。
いつもそうして、深い淵から引っ張り上げてくれた声。
でも今は、その声の主もいない。

「会いたいな……」

会って、時々そうしていたように、ほんの少しだけ彼に弱音を吐いたら、きっと彼はまた力をくれるだろう。

「…………会いに行こう……!」

新一はどこにいるのかわからないが、コナンはアメリカにいるとわかっている。
遠いけど、行けないことはない場所に。

“会いたかったら、会いに行けばいい”と、元太が言っていたのを思い出し、蘭は立ち上がった……が。

「そういえば、コナン君の住所、聞いてなかったな……」

アメリカに行く前、行き先の住所を聞いたが、詳しくはまだ知らないから、と言われ、そのまま聞きそびれてしまった。
蘭は受話器を取り、阿笠博士の家に電話をした。
博士なら当然知っているだろうと思っていたのだが……。

「ワシのところにも連絡がなくてのう。教えてあげられんのじゃ……」

返ってきたのは、博士のすまなさそうな返事だけだった。
蘭はそれでもお礼を言って博士との電話を切った後、探偵団のメンバーや平次にも聞いてみたが、答えは同じだった。それどころか、逆に聞かれてしまった。

コナンは、誰にもちゃんとした行き先を教えていなかったのだ。
落ち着いてから連絡をくれるだろうと思っていたが、それにしてはずいぶん時間が経っている。
だが、行く前も、ただ「アメリカに行く」としか言っていなかった。
いくら詳しい住所がわからなくても、アメリカのどの辺りくらいはわかっていただろうに。
それすらも、言わなかった。


彼にとって、わたしは、その程度の存在だった。


置いた手に1つ、しずくが落ちる。
続いて、2つ、3つとそれは増えていった。


自分には当然知らせてくれるものだと、どこかで思っていた。
彼にとって、自分は特別なのだと。
しかし、そうではなかった。
時には命をかけて危機から救ってくれたのに。
悲しんでいたら、励ましてくれたのに。
いつも側に、いてくれたのに……!

連絡をするような立場ではない
再会を望むような相手ではない
特別な存在ではない

“彼にとって、わたしは、その程度の存在だった ”
そう思った瞬間、悲しくて悲しくてたまらなくて、その想いは大粒の涙となって、次から次へと溢れ出た。

蘭はすべてに気付いてしまった。

いつまで経っても埋まらない心の空白
別れ際に交わした短い会話
その時、本当に言いたかった言葉

行かないで、と言ってしまいたかった
“寂しくなるね”ではなく“行かないで”と
引き留める言葉を。
彼の方から、本当はずっとここにいたかったと言って欲しかった
だから、自分からは何も言わずにその言葉を待っていた。
でも、彼は何も言ってはくれなかった……

「わたしは……コナン君を……!」

家族以上のかけがえのない存在になっていたとは気付かなかった。
その感情を抱いていたから、失った後の空白が埋まらなかったのだと、蘭は今になってようやく気付いた。
どんなにコナンが大切な存在であったかを。
それなのに、コナンからは何の連絡もなく。別れ際は今までの礼の言葉だけで、これからへの言葉は何もなく。

堰が切れてしまった涙腺から溢れる流れは止まらない。
コナンが去ったその時も、 新一から連絡が途絶えたとわかった時も、こんな風になることはなかったのに。
自分の想いとは裏腹なコナンの態度に気付いた今、まるで、見捨てられてしまったような、そんな気さえしてきてしまい、
蘭はコナンへの感情の大きさを、思い知らされていた。





それに気付いたからといって、唐突に何かは起こりはしない。
それまでと同じように、新一からもコナンからも連絡が来ることはなく、それまでと何ら変わりなく、時は過ぎていった。
しばらくは気持ちが沈んで何も手に着かない状態であった蘭も、時が経つにつれ次第に落ち着き、蘭は再びそれまでと同じ毎日を過ごしていた。


落ち着いたといっても、忘れてしまったわけではない。
いつも、心のどこかで気にかけてはいた。
今日は、手紙が来ているのではないか。
今日は、電話がかかってくるのではないか。
今日は、また携帯が使えるようになっているのではないか……。
しかし、当然のように何事も起こらず1日は終わる。
それを当然と思いつつも、それが起こるはずがないと諦めていても、捨てきれない想いは蘭の中で密かに生き続けていた。


そんな毎日を繰り返し続けていた、ある日。
今にも雨が降り出しそうな、重い雲がどんよりと空を覆っていた午後。
変化は訪れた。



いつものように学校から帰ってきた蘭は、階段を昇り、事務所のドアを開けようとした。
しかし、鍵がかかっている。小五郎はどこかに出かけているようだ。
さらに階段を昇り、自宅のドアの鍵を開け、中に入る。
未だに、誰もいない家に入る時にはあの“違和感”を感じてはいたが、今ではそれもかなり薄れてきていた。
自室に入り、荷物を置く。とその時、玄関のチャイムが鳴った。

「はーい」

返事をして、また玄関まで忙しなく戻り、ドアを開けた。

「あっ……!!」

そこに立つ人物を見て、蘭は思わず声を上げ、固まってしまった。

「し、新一の…………」

「蘭ちゃん、久しぶりね」
「元気にしてたかい?」

そこに立っていたのは、新一の両親である、工藤優作と有希子の夫妻だった。

「あ、はいっ!ご無沙汰してます!お久しぶりですっ」

挨拶を忘れていたことを思い出し、蘭は慌ててぺこりと頭を下げた。
その様子を優しい眼差しで見つめながら、優作と有希子は蘭に言った。

「突然でごめんなさいね。ビックリしたでしょ?」
「空港から電話したんだが、誰も出なかったのでね。直接来てしまったんだよ」

「え?そうだったんですか?
 すみません……わたし、今帰ってきたところで……父も出かけてるみたいですし」

「蘭ちゃんが謝ることはないのよ」

有希子は優しい笑みを浮かべて言った。
その笑みを見て、蘭は何か気になるものを感じた。
さっきから、優作にも有希子にも、いつもと違う何かを感じる。
でもそれは、久しぶりに会ったからだろうと自己完結して、蘭は話を続けた。

「空港ってことは……さっき日本に着いたところなんですか?」

「そうなのよ。急用ができてね……」

“急用”と聞いて、蘭はハッと思い出した。
もしかしたら、新一の身に何かあったから、優作と有希子がわざわざ来たのではないか……。
蘭は急にどきどきと心臓の音が頭に響くのを感じた。

「蘭ちゃん、実はね……」

急に有希子が真顔になり、改まって何かを話そうとするのを見て、蘭は思わず思っていたことを口にした。

「新一の身に……何かあったんですか……?」

それを聞き、優作と有希子は一瞬驚いた表情をしたが、次の瞬間、ふっと小さく息を吐くと、遠くを見るような目をして言った。

「…………あの子の身に何かあったか……あの子がどこで何をしているかは、
 わたしたちにもわからないのよ……」

意外な返事に、今度は蘭が驚いた。

「そ、そうなんですか?」

有希子は頷き、話を続けた。

「あの子から連絡がなくなって、もう何ヶ月かしら?そんなに長い間連絡が取れないなんてことなかったから、調べたり、探したりしたんだけど……」

そこで有希子は言葉を切り、黙って首を横に振った。

「蘭君のところには、何か連絡はなかったかい?」

有希子に代わって、優作が蘭に聞いた。

「はい……わたしのところに連絡があったのは数ヶ月前で、それからはもう……」

「その時、新一は何か言っていなかったかね?」

優作に聞かれ、蘭はしばらく黙ってあの電話を思い出す。
新一からの、最後の電話……。

「…………ずっと関わってる事件が解決するかもしれない、そうすれば帰ることができるけど、うまくいかなかったら帰れないかも、って……」

「そうか……じゃあ、私たちにのところにあった最後の連絡と同じようだね」

それを聞き、蘭は驚いて聞き返した。

「そちらにも、連絡があったんですか?」

優作は頷いて言った。

「多分、蘭君のところに電話した時、続けて私たちのところにも連絡してきたんだろう。
 内容も、同じだったよ」

「そう……ですか……」

優作の話から、新一が事件に巻き込まれて行方不明になってしまった、ということを、否が応にも察することができた。
重苦しい空気が流れる。
蘭は瞳の奥が熱くなるのを感じていた。
しかし、涙が出ないように、必死に堪えていた。
ここに来て、蘭はようやく、優作と有希子から感じる違和感の正体に気付いた。
優作と有希子も、自分の話から自分と同じ事を考え、我が子のことを想い、自分よりもずっと辛い心中にあるのだろう。
だから、いつも感じていた朗らかな空気が、今は消えているのだと。
この2人が、こんな風に沈んでいるのを見るのは初めてだった。
そんなことを考えれば考える程、ここで自分だけ泣くことはできなかった。


こんな時、コナン君がいてくれたらな


コナンのことは、しばらく忘れていた……と言うより、考えないようにしていたのに。
また、その存在を欲している。
どんなにこちらが求めても、向こうはそれを望んではいないのに……。

「……その話もあったんだけど、今日、ここに来たのは別の用事があったからなのよ」

沈みきった雰囲気を変えようと、有希子が再び口を開いた。

「別の用事?」

「蘭ちゃんに、お願いしたいことがあってね……」

そう言って有希子は横を向くと、「こっちにいらっしゃい」と階段の下に向かって声をかけた。

「…………!!」

程なくして、優作と有希子の間を割るようにして現れたその人物を見て、蘭は目を見開いた。

「コナン君……!」

ずっと会いたくて、側にいて欲しくて、話を聞いて欲しくて、その一言を聞かせて欲しくて……
でも、もう自分には会ってくれないのであろうと思っていた、その人物が目の前にいる。
蘭は思わず、コナンを抱きしめようとした…………が、半歩前に出てその顔を見た瞬間、思い止まった。

少し俯いたその顔には、表情がなかった。
蘭の顔を見ないのは、蘭に会いたくないとか、久しぶりに会って恥ずかしいとか、そういう理由からではないことが一目で察することができた。
虚ろな瞳には、何も映ってはいない。
以前には全く見たことのない状態だった。

「コナン君……?」

もう一度、名前を呼んでみたが、やはり反応はない。
それを見ていた優作と有希子は、小さく息を吐き、肩を落とした。

「蘭君に会わせても、ダメだったか……」

優作は小さく呟いた。

「え?それって……どういうことですか?コナン君は、一体……?」

そもそも、優作と有希子と一緒にいること自体が疑問である。
わからないことだらけで蘭は混乱しかけたが、とりあえず優作と有希子の話を聞くことにした。

「今日ここへ来た、いちばんの目的。急用が出来たと言ったのは、彼のことなの」

有希子の表情が、より神妙なものへと変わる。

「コナン君が彼の両親と久しぶりに暮らし始めてから、家族水入らずで旅行に出かけたんだそうだ。だが、その旅行先で事故に遭ってね……」

「交通事故だったんだけど…………その時助かったのは、この子だけだったの……」

蘭は思わず息を呑んだ。
“助かったのは、この子だけ”ということは……。

「じゃあ……ご両親は……」

一呼吸置いて、有希子は答えた。

「亡くなったのよ。2人とも……」

「…………」

予想通りの有希子の答えに、蘭は思わず目を伏せた。

「コナン君もその時、大ケガをしてね。今はもうケガはほとんど治ったんだが……
 精神的な傷はまだ…………」

せっかく両親と一緒に暮らせることになったのに、その矢先に突然訪れた別れ……
コナンにとって、それがどれほどショックだっただろうか、と蘭は考えた。
おそらく、経験した者にしかわからないであろう痛み。

それでこんな風に、魂が抜けてしまったような状態になってしまったのね……。

そこに無表情で立っている小さな少年を見つめて、蘭は心を痛めた。

「遠縁だったけど、江戸川さんとは付き合いが深かったから、私たちが引き取ることにしたんだけどね。いつまで経ってもこの様子で……だから思い切って、ここに連れて来てみたの」

そういえば、そんなことを聞いたこともあった。
コナンと新一と、そして阿笠博士は遠縁の親戚である、と……。
アメリカにいたコナンは、同じくアメリカにいた“身寄り”である優作と有希子のところへ行った、ということだった。

「日本に行く、とコナン君に言ったら、それまでしゃべることもなく、あまり動かずに家の中にばかりいたのに、自分から進んで外に出たからね。また元気を取り戻すんじゃないかと、私たちも期待していたんだがね」

どうやら、優作と有希子は、コナンを蘭に会わせれば、症状が改善すると判断し、毛利家を訪れたということらしい。
しかし、現実はそんなに甘くは行かなかったようだ。

「そう……なの……。大変だったんだね、コナン君……」

蘭はゆっくりとしゃがんで、コナンの前に膝をついた。

「わたし……ね……ずっとコナン君に会いたかったのよ?」

人形のように立ちつくしているコナンに向かい、蘭は話しかけた。

「でも、コナン君は……いつまで経っても、連絡してくれなくて……
 だからわたし、コナン君に嫌われてたのかな、って思って……」

いつの間にか、外は雨が降り出していたようだった。
雨音が階段と廊下に響いている。

「すごく悲しくなってたの。勝手に。
 でも、コナン君の方が、もっとずっと、辛い目に遭ってたのにね……」

あの日から、大嫌いだった雨の日。
でもそれも、今日で変わるかもしれない。

「だから……今日会えて、すごく嬉しいの……本当に……すごく……」

今度は躊躇うことなく細い腕を伸ばして、蘭はゆっくりとコナンの身体を抱きしめた。
温かい体温。確かにここにいる、という存在感。
また、蘭の瞳の奥が熱くなった。
でも、今度は堪えなくてもいい。
蘭の瞳から、熱い雫が零れ、それはコナンの頬に触れて流れ落ちた。
その感触に驚いたように、ぴくっとコナンが微かに動いた。



「………ら…ん…………ねえ…ちゃん…………?」



微かな声。
しかし、3人の耳にはしっかりと届いた。

「!!」

驚いて身体を離し、蘭はコナンの顔を見た。
優作と有希子もまた、驚いて顔を見合わせる。

まだどことなく虚ろではあるものの、先ほどと違い、コナンの瞳は蘭をそこに映していた。

「コナン君……!」

自分を見ている視線を感じて、蘭はその名を叫び、もう一度コナンを抱きしめた。
その様子を、優作と有希子は、心から安堵した微笑を浮かべて見守っていた。








「こうするのが、いちばん、良かったのよね……」

有希子は自分に言い聞かせるように呟いた。

「多分、な……」

久しぶりに歩く道。
雨でできた水たまりをよけながら、優作は答えた。
あの後、小五郎が帰宅し、話し合った結果、コナンは再び毛利家で暮らすことになったのだった。

「蘭君にとっても……“コナン君”が一緒にいる方がいいようだしな」

「そうね……蘭ちゃん……あんなにやつれてるとは思わなかったわ……」

玄関の扉が開かれた瞬間のことを思い出す。
記憶にある姿より、さらに細くなった顔。
どんなにいつも通りに振る舞っていても、以前は蘭から溢れていた輝かしいばかりの活気が、全く感じられなかった。
そして、コナンを見た瞬間。コナンを抱きしめた瞬間。
まさに、しおれていた花が水を得て生気を取り戻したような……そんな風に見えた。

「蘭ちゃんには、いっぱい嘘吐いちゃって……申し訳なかったわ……」

本当は、新一が組織に挑んだことは知っていた。
かなりのダメージを与えはしたが、完全に潰すことは叶わなかった。
薬が解毒できないという事実を知ってしまったショックと、組織に挑んだときのケガが元で、あのような状態になってしまったのだ。
いろいろな医者に診せても、いろいろな治療法を試みても、コナンの正気を取り戻すことはできなかった。

“蘭に会いたい”

いつだったか零したその望み通り、コナンを蘭に会わせればもしかしたら……と、優作と有希子はそれに最期の望みを託し、連れてきたのだった。
だが、本当のことは蘭には言うことはできない。
組織が壊滅しない限り、コナンが工藤新一であると告げることはできなかったからだ。
そのため、この状況を蘭に説明するために、優作と有希子が2人で嘘の筋書きをでっち上げたのだった。

「まあ……今回は“嘘も方便”ということにしておこう。そうでないと、今度は我々が参ってしまうよ」

蘭に酷い嘘ばかり吐いたという、良心の呵責に耐えられずに。

「これで2人が元気になったら、そうとも言えるけどね……。また時々、様子を見に行かなきゃね……」

「そうだな……」

見上げると、雨上がりの空は次第に雲が切れ、その隙間から光が差し込む。
そんな風に、あの2人にも光が訪れればいいのに……と、優作と有希子は願わずにはいられなかった。





2002.11.21