春の夜の夢         草紙剥 作


昨日まで、空には冬の色が残っていてまだまだ肌寒かったというのに、今日は打って変わって空は快晴。それでも、朝はまだ冷えていたので、昨日と同じ格好で外に出たら、とんでもなく暖かくなって、しっかり汗をかいてしまった。
わたしは、家に帰ってすぐ、シャワーを浴び、下着とタンクトップを身に着けると、春物の服を出すために、自分の部屋のクローゼットをひっくり返していた。
「えっと、このワンピースとブラウスは出して、と。このシャツはまだ早いかな?……あれ?」
なぜか男物のシャツが混ざっている。
「お父さんの、間違って一緒に入れちゃってた〜?も〜、やだ……」
一人で呟きながら、そのシャツを手に取ってよく見ると……。
「あれ?これ……」
お父さんのじゃない…………新一のシャツだ……。
そういえば、ずっと前に、うちに来たときにコーヒーこぼして……洗っとくからって預かって……お父さんの服貸して……。
その後、新一からお父さんの服は返してもらったけど、アイロンかけてないからとか、持って行くの忘れたとかで、ずっと返しそびれてて……。
そうこうしている内に、新一がいなくなっちゃって、ここにしまっておいたんだっけ。
……新一、今頃どこで何してるのかしら。
ふと、キザでカッコつけで意地悪な、幼馴染みの顔が脳裏に浮かんだ。
もうっ、最近は電話もかけてこないんだからっ。こっちがどんなに……どんなに…………寂しいかわかってるの……?
わたしは手にしていたシャツを抱きしめて、顔をうずめた。
洗濯したし、ずっとクローゼットの中に入っていたんだから、そんなはずはないのだけれど。
新一の匂いがするような気がして……。


しばらく、そうして目を閉じていた。どれくらいの時間が経ったのか、よくわからなかったが、ふと顔を上げると、もう暗くなっていた。窓から月明かりが差し込んでいる。
「やだ。もうこんな時間?」
立ち上がろうとして、ブルッと身震いする。
「何か着なきゃ……」
ずっと抱いていたシャツに目が落ちる。
新一の……。
考える間もなく、惹かれるように、ふわり、と羽織ってみた。
あたたかい……。
そう思って、くすっと微笑がこぼれた。
当たり前よね、ずっと抱いていたんだから。自分で温めていたんだから。でも……。
新一のぬくもりのように感じた。
『そんなカッコでいたら、風邪ひくぞ』
そう言って、服を貸してくれたような気がした。
『ホラ、ちゃんと着とけよ』
「はぁい」
思い浮かべた新一の声に、くすくす笑いながら返事して、シャツの袖に腕を通し、ボタンをラフにとめた。
大きいなぁ……。
袖は指の先まですっぽり収まってしまうし、丈だって……。
そのまま、立ち上がってみると、思った通り、しっかりお尻が隠れてしまうくらい。
わたしとそんなに変わらないかと思っていたけど、やっぱり、男の子なんだ。ずいぶんと体格が違うのね。ふふふ。
なんだか可笑しくなって、静かに笑っていた、その時。
「蘭」
「え?」
さっき、自分で思い浮かべていたのとは違う新一の声が聞こえた……ような気がして振り返った。
でも、誰もいない。
「蘭」
もう一度、聞こえた。急いで窓を開けて外を見たが、新一どころか、人通りもない。
誰もいない街を、月が静かに照らしているだけ。
でも、新一が近くにいるような気配がする。姿は見えないけど、強く、そう感じる。
思うより早く、わたしの足は動き出していた。


急いで、外に出てみたけど、やはり新一の姿はない。
でも、感じる。
自分の直感だけを頼りに、新一の気配を追って、わたしは走り出した。
新一、どこにいるの?
「蘭」
時折、耳に響く声に意識を集中するため、周りのことも、靴を履かずに飛び出してきたことも、まったく気に留めなかった。……もっとも、わたしが通った道には、不思議なことに誰もいなかったのだけれど。
直感と聞こえてくる声に導かれ、無我夢中で走った。どんな道をどう通ったのか、今走っているのが知っている道なのか、それすらもわからない。
と、その時、急に目の前が開けて、わたしは立ち止まった。視線を上げると、大きな桜の木が見える。
ここに新一がいる……!
直感がそう叫んでいる。
1つ、大きく息を吸って、ゆっくり吐き、呼吸を整えると、わたしは桜の木の元に歩み寄った。
家の近くの桜は、まだ咲き始めたばかりだというのに、その桜は満開で、もう散り始めている。
舞い落ちる花びらが月の光を浴びて、時折キラッと輝いて見える。
すごく綺麗……。こんな光景、前にも見たような気がする……。それに、この桜の木も……。どこで見たんだろう?
不思議な感覚に襲われながら、わたしは桜の木の元に辿り着いた。
……でも、新一の姿はない。念のため、ぐるりと幹のまわりを一周してみたけど、やっぱりいない。
……新一がいるような気がしたのも、声が聞こえたと思ったのも、ただの気のせいだったのかな……。フフ……きっとそうよね。いつも新一のことばっかり考えてるから……新一に会いたいと思ってるから……。わたし、ホントにバカだ……。
自分の愚かさを思い、自分で自分を嘲笑った。
そして、桜の木の根本に座り込んだ。すぐにこの場を去る気になれなくて。
そのまま、しばらく、月と舞い散る桜を見ていた。
こんなに綺麗な光景を見ていると、胸が切なくなってくる。
新一……新一に、会いたい……!
普段は気丈に振る舞っているけど、ホントはすごく寂しくて、心細いの。それを隠すために、強いフリをしているの。
新一がいなくなって、初めてわかった。わたしは弱い人間だって。新一がいないだけで、不安で不安でたまらないの。
わたしの心に安らぎをくれる人。わたしの大切な人。……どこにいるの?
いつの間にか、涙がこぼれだして、それは止まらなくなっていた。わたしは、立てた両膝に額をつけて顔を伏せ、静かに肩を震わせていた。


その刹那、少し強い南風が、わたしの身体を吹き抜けていった。
気持ちいい風……。
風に誘われて顔を上げると、その風のせいで舞い落ちる花びらが量を増したのが見えた。
あまりにも美しい桜吹雪に、思わず立ち上がる。
また風が来る。今度はやさしく、涙で濡れた頬を撫でていく。
無意識のうちに、その風に歌を乗せていた……。
「蘭」
自分の歌声に混じって、また新一の声が耳に響く。声の正体――自分の愚かさ――がわかったというのに、まだ聞こえる。わたし、おかしくなっちゃったのかなぁ?
「蘭!」
今度は、強く呼ばれた。すぐそばで。……え?
歌うのをやめ、両手でごしごしと顔をこすって涙の跡を拭いながら、振り向いた。
わたしを見つめる影。月明かりに照らされた、その顔は……。
「新一……?」
ホントに新一なの?
「なんだよ、また泣いてんのか?まったくオメーは……」
「なによ!誰のせいだと思ってんのよ!」
反射的に叫んでいた。
目の前にいる人物が本当に新一なのか、まだ信じられなかったのに、その物言いに対して、わたしの口は勝手に動いていた。
会いたくて会いたくて、どうしようもなく会いたくてたまらなかった、その存在にやっと会えたというのに……習慣とは恐ろしい。
「ホントにあんたって人は…………!?」
いつものように文句を言おうとした瞬間、新一の両腕が伸びてきて、ふわりと抱き締められた。
突然のことに驚いて、文句どころか声も出なくなってしまった。
「……ごめん」
新一が呟くように言った。
意外な言葉にさらに驚いて、新一の顔を覗くように見た。
それに気付いた新一が、少し身体を離す。
「オレのせいで泣いてたんだろ?……オレはな、おまえに泣かれるのがいちばん困るんだよ。オレのせいで泣かれるのがな……」
新一の顔が少し赤くなり、照れているようだったが、その瞳はまっすぐわたしを見ていた。
「だから、謝ってんじゃねーか……。なにハトが豆鉄砲喰らったみたいな顔してんだよ!」
なに、その言い方……!
突然抱き締められ、びっくりして恥ずかしくて照れに照れてしまって、多分相当顔が赤くなっていただろうに、その新一の言い草で、一気に冷めてしまった。加えて、条件反射が働く。
「なによ、なによ……。自分が困るから謝ったの?自分のために?わたしの……わたしの本当の気持ちも知りもしないで……!」
さっき泣いていたせいですっかり涙腺が弛みきっているため、知らぬ内に涙が溢れ出ていた。
その涙を見たためか、新一が一瞬困ったような表情を見せた。
「そうだな……『自分のため』なのかもしれねーな……。オレは蘭が悲しむのを見たくない。蘭を悲しませたくない。それはな……」
新一がわたしを見つめる。深い色の瞳がわたしだけを映している。
桜も、月も、風さえも、他のものは一切映っていない。映ることを許そうとしない、強い意志に溢れた瞳。
その瞳に捕らわれて、動けなくなった。


「……蘭が好きだから……。誰よりも、何よりも、どんなことよりも、蘭がいちばん大切だから……」
え?今、何て言ったの?
わたしは耳を疑った。
聞き返す間を与えることなく、新一は言葉を紡ぎ続ける。
「蘭が苦しんだり辛い目に遭ったりすれば、オレも苦しくて辛い。それなのに……」
瞳が悲しみに滲む。
「蘭を苦しませていたのは、オレだったんだよな……」
なんて辛そうな表情(かお)をするの?
「謝って済むとは思っていない。でも、ちゃんと伝えておきたかったんだ。オレの本当の気持ちを。……蘭、悲しませてごめん。大好きだよ」
新一が……?
わたしのことを……?
すごく、すごく嬉しいはずなのに、どうしてこんなに悲しくて辛いんだろう。
こぼれ落ちる涙は止まらない。
新一の表情のせい?普段は絶対に見せることのない、今にも泣き出してしまいそうな弱々しい姿……。
散りゆく桜のように、儚ささえ感じさせる、その表情の……。
また南風が吹き抜ける。わたしの心に懸かった、靄を吹き飛ばすように。
…… そうか、わかった。
わたしも新一と同じ……。新一が辛そうにしているところを見たくない。新一が辛かったら、わたしも辛くなるのよ。そして……。
わたしも、伝えなきゃ。新一が伝えてくれたように、わたしの本当の気持ちを。
「……自分だけ、言いたいこと言って、気が済んだ……?」
予想外の言葉だったのだろう。新一が驚いて目を見開く。
「わたしだって……言いたいことは、いっぱいあるんだから……」
「蘭……」
「わたしは……新一に……謝って欲しくなんかない……!」
涙で声が途切れてしまい、うまく喋れないけど、かまわない。今、言わないと……!
「わたしが、泣いていたのは……今も、泣いているのは……確かに、新一のせいよ……」
また、新一の表情が曇る。
「新一は、自分のせいだからって……謝るけど……どう『自分のせい』か、わかってないでしょ……?」
「どうって……」
「さっき、自分で言ったでしょ?……わたしが辛い目に遭ったら、新一も辛くなるって。……わたしも、同じなのよ」
「え?」
「新一が辛そうだったら、わたしも辛くなるのよ……!だから……そんな表情しないで。それとね……」
次の言葉を口にしようとした、その刹那。わたしの心の奥底から急激に熱いものが込み上げてきて、それは大粒の涙となってこぼれ落ちた。
「新一に……会えなくて……。新一が……側にいなくて……。寂しくて寂しくて……こんなに涙が流れるくらい、寂しくて、たまらなかったのよ……!」
溢れる涙に耐えきれず、わたしは目を閉じて俯いた。
「……だから……謝って欲しくない……。謝罪の言葉なんて……いらない……。ずっと…ずっと、側にいて……。新一が……新一のことが、好き……!……大好きだから……」
胸が苦しくて、声が消えてしまいそうなほど、小さくなる……。
「もう……どこへも行かないで……!」
「…………」
わたしの懇願にも似た告白に、新一はすぐには答えなかった。
張りつめた空気が痛い。
舞い落ちる花びらが、わたしたちの周りを避けていくように思えた。
南風でさえ、和らげることのできなかったその空気を動かしたのは、新一自身だった。


空気が動いた、と感じた次の瞬間、涙で濡れた頬を新一の大きな掌が包み込んだ。
突然、触れられて、わたしはビクッと身震いした。
「……ごめん、蘭」
たった今、謝って欲しくないと言ったのに……!
さっきわたしが言ったこと、ちゃんと聞いていたの?
「オレも……こうして、ずっと蘭の側にいたい……。でも、また行かなきゃなんねーんだ……」
また……?
また、わたしを置いて、どこかへ行ってしまうの?
「だから、蘭の言うように、してやれない……」
それで、謝ったの?わたしの気持ちを、受け止められないから……?
俯いているので、新一の顔は見えなかったが、その声はとても辛そうだった。
「でもな?蘭が……オレのことをそんな風に想ってくれいていて……すごく、嬉しかったよ……」
優しい声に、また目頭が熱くなる。
「蘭に寂しい思いをさせたお詫びと、蘭がその想いを伝えてくれたお礼……には、全然足りねーかもしれねーけど……」
新一の親指が、目頭から目尻へとゆっくりなぞって、溢れた涙を拭ってくれる。
「『今』は、蘭の側にいるよ……」
風が来る。さっきとは違い、わたしたちを優しく包み込むように。
「今のオレには、これ位のことしか出来ねー……。情けないけど、これが精一杯なんだ」
「……しん……いち…………」
出来る限りの力で、わたしを受け止めてくれたのね?
わたしも応えなきゃ。でも……。
込み上げる涙のせいで、目が開けられない。
束の間のひとときでも、側にいると言ってくれたのに。
その姿を焼き付けて、その瞳を受け止めたいのに。
まるで、何かに押さえ付けられているように、瞼が重い。
どうすれば……どうすれば、新一を受け止められるの?
もどかしさに困惑していると、両頬を包んでいた新一の手が離れた。
いや……!離さないで……!
そう思ったのは一瞬だった。
すぐに、新一の細くて長い指が顎にかかり、顔を上げさせられた。
すぐそばに、新一の気配を感じる。息遣いまで感じられるほどに。
そして……わたしの唇は、柔らかな感触に震えた。
震えは、やがて全身に伝わり、体の芯で熱となった。
新一を……受け止めることができた……。
新一の唇を、わたしの唇で……。
繋がった唇から、新一の想いがわたしの中に注ぎ込まれ、わたしはそれを受け止める。
嬉しくて、ひとすじの熱い雫が頬を伝った。
新一が唇を離し、そこに優しく唇を這わせる。
反対側の頬にも触れて、今度は目尻に、そして瞼に触れる。
新一の唇が瞼に触れた途端、今まで鉛のように重かった瞼が、急に軽くなるのを感じた。
もう一度、軽く唇に触れ、新一は顔を離した。
ゆっくりと、瞼を開くと、深い色の瞳がじっとわたしを見つめている。
その視線を、しっかりと受け止め、わたしも見つめ返した。
「……ありがとう……新一……」
自然に口をついて出た言葉。同時に緩やかな微笑がこぼれる。
それを見て、新一も微笑する。
その瞳、その微笑をしっかりと眼裏に刻み込み、わたしは新一の胸に顔をうずめた。


柔らかな月明かりと、優しくそよぐ風に包まれて。
数多の時を過ごしてきた、桜の古木に見守られ。
もう、何者にも邪魔されることなく、甘い時間が流れていく。
…… と思っていたのに、そこに水を差したのは、なんと新一自身だった。
「それにしても、おまえ、そのカッコ……」
「え?」
言われて、ハッと気付く。そうだ、わたし……。
今の自分の姿を思い出し、一気に顔が熱くなるのを感じる。
それと共に、腹立たしさにも似た感情が沸き起こる。
もうっ、こんな時にそんなこと聞かないでよね……!ホントに、デリカシーの欠片もないんだからっ!
でも……新一らしいと言えば、新一らしいわよね……。気になることは、とことん追求しないと気が済まないのよね……。
苦笑いして、新一から身体を離そうとしたが、新一はそのまま腕に力を入れ、それを防いだ。
なに?そんなこと言っといて、このままでいろって言うの?ヘンなの!
すごく可笑しかったけど嬉しくて、素直にそのまま身を委ねた。
「そんなカッコのまま、ここまで来たのか?」
「……だって、声が聞こえたんだもん…………」
「声?」
「うん。新一の声。『蘭』って呼んだよ?だから、わたし、靴も履かないで飛び出して来ちゃったの……」
新一のシャツを着ていることについては、さすがに恥ずかしいので触れなかった。
「……そうか。聞こえたのか」
何か知らないけど、一人で納得している。
新一は、『声』の方が気になるようで、シャツのことは聞かなかった。
わたしは心の中で、こっそり胸を撫で下ろした。
「新一の方こそ、なんでここに来たのよ」
シャツのことは聞かれたくないので、さりげなく話題を変えた。
「…………」
しばし沈黙して、新一は呟くように答えた。
「……蘭に会いたかったから」
「え?」
「だからっ……ここに来れば、蘭に会えるような気がしたんだよ……!」
訳が分からず、新一の顔を見上げた。
新一は顔を背けているため、その表情は見えなかったが、耳が真っ赤になっているのが見えた。
もうっ……キスまでしておいて、剰え抱き合っているというのに、何を今さら照れているんだろう?
妙に可笑しくなって、くすくすと笑った。
「な、なに笑ってんだよっ!」
必死で笑いを堪えながら、答える。
「……別に。なんでここに来れば、わたしに会えると思うわけ?わたし、今日初めてここに来たのよ?」
わざと、別の質問を投げかけた。
「初めて?嘘言うなよ。おまえ、よくここに来てたじゃねーか……っつっても、もうだいぶん昔のことだからな……。忘れちまったか?」
「えっ?うそっ。そうだっけ?」
必死で記憶を遡るが、思い出せない。
「まー、いいけどよ……。それで、オレ、この桜の下に座ってたら、蘭が来たんだよ。ホントに会えると思ってなかったから、ビックリしたぜ」
「え〜〜〜!?わたしがここに来たとき、新一いなかったよ?」
そう。確かにいなかった。木の周りをまわって、ちゃんと探したもの。
「ちゃんといたぜ?すぐ声掛けたけど、蘭はなかなか気付いてくれなかったけどな。……なんでだろうな?オメー、何か考え事でもしてたのか?それとも……」
反射的に、新一の唇を、人差し指で押さえていた。
尋問が始まると、真実が解き明かされるまで、新一は止まらない。
新一は、驚いて目を見開いたまま動きを止めた。
「そんな話は……電話ででもできるでしょ?今は、『今』しかできない過ごし方をしたいの……」
そう言って、にっこり微笑んだ。
『今』を、新一の胸に抱かれているこの時間を、1秒たりとも逃さないように、大切に、大切に過ごしたい……。
新一は顔を赤くして、しばらく黙っていた。
事の真相を解明することを、わたしに止められてしまったから、少し不満そうな顔をしていたが、すぐに優しい微笑を湛えて、わたしを抱き締め直した。
……知らなかった。
こんなにも心地よい場所があるなんて。
今、知ってしまった。
どこよりも安心できる場所があることを。
もう、離れたくない。
ずっと、ずっと、こうしていたい……。
この時ほど、時間が止まってしまえばいいのに、と思ったことはなかった。
繰り返し、優しく髪を撫でてくれる、新一の手に。
今、凭れ掛かっている、新一の胸に。
この手でしっかりとしがみついている、新一の背中に。
そして……
「蘭」
時折、わたしの名を呼ぶ、新一の声に。
その声に応えるように見上げたとき覗き込む、新一の瞳に。
その度に重ねられる、新一の唇に。
……新一の全てに酔い痴れる。
舞い落ちてくる桜の花びらが、わたしたちの髪に、肩に、身体に降り積もる。
新一の腕の中で、わたしの意識は遠退いていった。


身体を包む、ぬくもりを感じながら、わたしは微睡んでいた。
微かに目を開けたときに見えたのは……。
「……?」
月明かりだけで薄暗いが……そこは、よく知っている場所。
わたしがいつも過ごしている場所。
……わたしの部屋。
わたし、眠っていたの?
じゃあ……あれは夢?
まだぼんやりと霞掛かった頭を擡げ、身体をゆっくりと起こす。
その拍子に、身体を包んでいたぬくもりが肩から落ち、ひんやりとした空気が肌に触れる。
……誰かが、毛布を掛けてくれていたのね。ずいぶん薄着で……ちゃんと服も着ないでいたから……。
そうだ……!確か……。
徐々に意識がはっきりとしてくる。
辺りを見渡すと、服や衣装ケースが散乱したままになっている。
そして、わたしの手の中には……。
まだしっかりと、新一のシャツが握りしめられていた。
しばらく、それを眺めていたが、急に笑いが込み上げてきた。
なんて夢……!
さっきまで過ごしていた時間を、思い起こしてみる。
なんか、妙にリアルだったわよね……。
新一を捜していたときの、必死な気持ち。
新一にぶつけた、本当の想い。
切なくて、流した涙。
そして……新一に触れた感触。
思い出して、かあっと顔が熱くなる。
夢の中だったとはいえ……あんなこと……!やだぁ……わたしったら!
それに……新一と……その……そういうことしたいと思ってるワケ?……わたし。
でも……。
恥ずかしいという気持ちもあるけど……。
本音を吐き出して、思いっ切り泣いたことで、何かスッキリしたし、
新一に抱き締められて、すごく気持ちよくて、心地よくて、安心したことを思い出した。
何だかふわふわした、不思議な気分……。
自然に微笑が漏れてしまう。
夢の中でも、新一は新一だった。
自分勝手で、デリカシーが無くて、推理オタクで……。
そんな新一を、どれだけ好きなのかが、あの夢でわかってしまった。
夢だったけど……。
新一に会えて、新一がわたしを好きだと言ってくれて、新一に抱き締められて……。
すごく、嬉しかった。
すごく、ときめいた。
すごく、幸せだった……。
夢だったのか、という嘆きや虚しさが微塵もないのは、なぜだろう?
手近にある服を着て、立ち上がり、窓を開けて外を見た。
夢と違い、街の騒音が聞こえ、人々も行き交っている。
同じなのは……月の光だけ。
この月を、新一もどこかで見ているのかしら?
同じ月を見ているのなら、まんざら離ればなれでもないのかもしれない。
柔らかな風が吹き抜ける。夢と同じように。
わたしがいた場所に、幾枚かの桜の花びらが落ちているのを見つけるのは、
もう少し後のこと……。


翌日。
少し早めに起き出して、みんなを起こさないように、そっと支度をする。
今日は休日だけど、午前中だけ空手部の練習がある。
着替えようと、制服に手を伸ばしかけたとき、視界に入ったのは……。
昨日見つけた、新一のシャツ。
抱き締めたまま眠ってしまい、少し汚してシワをつけてしまったので、洗い直そうと出しておいたんだっけ。
ふと思いついて、それを手に取り、袖を通した。
夢の中で着たときと同じように、やはりそれは大きかった。
ボタンを留めるときの違和感が、何だか楽しい。
袖は……捲り上げると袖口がみっともなくなるので、アームバンドでたくし上げた。
後は、いつもと同じように作業を進める。
ブレザーを着て、身なりを整え、鏡を見た。
……いつもとほとんど変わらない姿。襟元が少し広いくらい。
でも、これくらいなら、他の誰が見ても男物のシャツを着ているなんて、気付きはしないだろう。
……誰にも知られなくてもいい。誰も知らない。わたしだけの、ささやかな秘密。
いつもと違う、ほんの少しのワクワクとドキドキを胸に、静かに家を後にした。

練習が終わり、すっかり日が高くなって暖かくなった空気を頬に感じながら、軽やかな足取りで帰路に就く。
……着替えるとき、少し緊張したが、やはり誰も気付かなかった。
ふふふ、と思わず微笑が漏れてしまい、慌てて辺りを見回す。
誰もいないことを確認して、ホッと一つ息を吐き、再び歩き出した。
……こんな気持ちのいい日は、このままどこかに行きたいな……。
ふと、昨日見た夢の中で、新一が言った言葉が脳裏を掠めた。
『おまえ、よくここに来てたじゃねーか』
夢で見た、あの桜。
『忘れちまったか?』
そう……すっかり忘れていた。新一が言ってくれたから、目が覚めた後、思い出した。
古い記憶を頼りに、いつもは行かない方角を目指す。
あそこの角を曲がって……その先の橋を渡って……あの緩やかな坂をのぼって……。
もう、何年も経っているというのに、辺りの景色はほとんど変わっていない。
やや鬱蒼とした木々の間を抜けると……もうすぐ、見えるはず……。
「……ああ」
急に目の前が開けて、その先に……あの桜があった。
思わず、感嘆の声が漏れる。
今は昼間だし、桜もまだ三分咲きといったところだから、夢とは少し印象が違うが、間違いない。
近づいて、幹の周りをぐるりとまわってみた。
ばかね!わたし……!新一がいるわけないのに!
無意識に新一を捜している自分に気付き、吹き出した。
いくら、今、新一のシャツを着ているからって、夢のようにはいかないわよね。
だいたい、夢の中だって、わたしが来たときにはいなかったというのに!
大きな桜の木が作り出す、木陰に入って、大きく深呼吸する。
……だけど、新一は最初からいた、って言っていたわね……。
夢の中では、辻褄が合わないのは常。このことも、きっとそうなんだろうな。
でも、もしかしたら……この桜の木のせいなのかも?
この桜の木には、何か不思議な力がある、とずっと思っていた。
それは……いつ来ても、誰もいないから。
こんなに綺麗な桜だから、花見客がいたって全然おかしくないし、花の季節でなくても、のんびり過ごせる、とても気持ちのいい場所なのに。
わたしが来るときは、絶対に誰もいない。わたしのために、人払いしてくれているんじゃないか、とまで思うほどに。
まだほんの少し、冷たさの残る風が、わたしの顔の両側の髪を浮き上がらせ、耳を優しく擽っていく。
夢の中でここに来たときは、すごく必死で、切なくて、辛かった。
……でも、よく考えてみると、わたしが昔、ここに来ていたときは、いつもそんな想いを抱いていた。
こんな風に、爽やかな気持ちでここに来たのは、初めてかもしれない。
しばらく、空を見上げ、風を受けながら、昔のことや夢のことを思い返していた。
いつも、そうだった……。
一人でここにいたら、名前を呼ばれて、振り返ると新一がいた……。
『蘭』
思い出しながら、振り返ってみる。
「…………!」
そこにいたのは……。
「コナン君……」
静かに微笑んで、わたしを見ていた。その微笑につられるように、わたしも微笑んだ。
「いつの間に……?どうしてここへ……?」
少し間をおいて、彼は答えた。
「……ついさっき。ボク、学校の近くで蘭ねえちゃんを見かけたんだけど、家と全然違う方に行っちゃうんだもん。声かけようと思ったんだけど、蘭ねえちゃん、歩くの速くて……。結局、ここまでついて来ちゃった。キレイな場所だね」
そう言って、にっこり笑う。
「蘭ねえちゃんこそ、どうしてここに来たの?」
「わたし?わたしはねぇ……」
言おうとして、微笑が漏れた。
「……なんとなく」
にこにこ笑っているわたしを見て、コナン君が不思議そうな顔をする。
「ふふふ、実はねぇ……。昔、よくここに来ていたことがあって……そのこと、ずっと忘れてたんだけど、昨日、夢を見て思い出したの……」
「夢?」
「そう。夢の中ではね、月夜で、この桜も満開で、すごくキレイだったんだけど……」
頭の上の、桜を見上げる。
「……今の桜も、キレイだけどね」
そう言った途端、コナン君の表情が少し変わったように思えた。
あの、時折見せる、大人びた表情に……。
「わたしね、昔、イヤなこととか、悲しいこととか、辛いことがあったときに、一人でここに来て、その辛い気持ちに耐えていたの……。そしたらね、後から必ず新一が来てくれて、よく励ましてくれた……」
コナン君は、わたしの話を、黙って、優しい瞳をして聞いていた。
「わたしが元気になるまで、ずっと一緒にいてくれた……。いつの間にか、ここに来ることもなくなって、忘れてしまっていたけどね」
忘れていたけど、新一が教えてくれた。
教えてくれたのは、夢の中の新一だったけど、新一なら、きっと本当に憶えているよね?
「ふぅん……そうなの……。でも、蘭ねえちゃん、今日は違うみたいだね?」
「え?何が?」
「だからさ。今日はイヤなことがあったから来たんじゃないんだよね」
「……うん。そうよ!」
そう言って、微笑むと、コナン君も微笑する。深い色の瞳で。
あの時、刻み込んだ、新一の瞳と微笑。それによく似ていた。
そう、今日、ここに来たのはね……。
「おーい、コナンーーーー!」
「コナンく〜〜ん!」
「みんな、待ってよ〜〜!」
突如として、元気な声が響き渡った。
コナン君を追いかけてきたらしい、少年探偵団が駆けてくる。
「……なんだよ、なんでお前らまでここに来るんだよ!」
コナン君の表情が、一転して不満げになる。
それが可笑しくて、わたしはこっそり笑っていた。
「ハァハァ……やっと追いついたぜ……」
「わ〜!きれ〜い!」
「……そうだ!写真撮りましょうよ!ちょうどボク、カメラ持ってますから!」
そう言って、光彦君がカメラを取り出した。
「じゃあ、まず、コナン君とお姉さん、一緒に撮ってあげますよ!」
「ええ〜?いいよ……」
「いいじゃない!撮ってもらおうよ!ね?」
乗り気でなさそうなコナン君の顔を覗き込んでそう言ったら、なぜか少し顔を赤くして、
「うん……」
と、小声で答えた。
「じゃあ、いきますよー!はいっ、チーズ!」

……その時、撮ってもらった写真は。
今も、わたしの部屋に飾ってある。
あの日の夢を、忘れてしまわないように……。


あなたは、いつも、わたしのそばにいる。



FIN