cold



目が覚めると、暗かった。
目が慣れるまで数秒。
暗いが、明かりはあった。
火が燃えている。
壁に映っているのは、ゆらめく炎が作り出す光の影。
目の前に広がるのは、見たことのない風景。
家の中であるようだったが、家と呼ぶには少し様子が違っていた。
様々な形や大きさの木材が置かれいる。
それを加工するような、道具がある。
床は板張りで、その色は使い込まれていることを示す黒。
清潔なようではないが、ホコリなどはなく、決して不潔ではない。
その床に、体を丸めて横たわる小さな姿が見えた。
状況を把握するのに数秒。
そして、やっと蘭の頭は覚醒した。

「コナン君……!」

駆け寄ろうと動きかけた瞬間、右足首に痛みが走る。

「っ……!!」

蘭は反射的に動きを止め、痛んだ足首を手で押さえた。
触れたそこには、新しい布が丁寧に巻かれていた。

「コナン君……」

もう1度呟いて、蘭はゆっくりと這うようにして、コナンの側へと向かった。






依頼者に招待され、蘭とコナンはいつものように、小五郎にひっついて山奥の山荘まで出かけた。
そこで、仕事を終えて帰る途中のことだった。
山道は整備されてはいたが、それはかなり昔の話――その山荘が出来た何十年か前のことであろう。通行量は山荘に行き来する車のみであり、再び整備されることがないであろうと、容易に予想できた。アスファルトには至るところにひびが入っており、所々に穴があいていたり、瓦礫が散らばっているところもある。穴からは、雑草が生えていた。何年もの間に堆積した落葉が土となり、道を隠し、場所によっては盛り上がっているところもある。
山荘へ至る道がこれほどの悪路であることを知らなかった小五郎は、いつもと同じ車を借りた。四駆を借りていれば、問題は起きなかったのかもしれない。行く時も苦労して、その道を通り、なんとか目的地に辿り着いたものの、そこで車の整備を行うことはできない。そのままの状態で、帰りも同じ道を通らなければならず――――二度目は無事に通り抜けることはできなかったのである。

それまでも、車は大きく上下に揺れ、乗車員を翻弄した。だがついに、今までになく大きくガクンと衝撃が走ったかと思うと、それきり車は前に進まなくなった。
調べてみると、タイヤはパンクしていた。エンジンの具合も良くないようだ。
幸い、山の中ではあったが開けた場所だったため、携帯電話が通じ、助けを呼ぶことができた。
鳥のさえずりだけが聞こえる静かな山中。山は平地と違い、4月と言えども風は少し冷たかったが、空は雲一つなく晴れ渡り、やさしく降り注ぐ陽射しは暖かい。周りには、小さな草花が様々に咲いていて、春の匂いを漂わせていた。

車から降りた蘭は、澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、大きく伸びをした。
「気持ちいいね!ちょっとお散歩してこようっと♪」
助けが来るまでかなり時間がかかることは明白である。小五郎は昨晩、仕事であまり寝ていなかったため、運転席を倒してすでに昼寝に入っていた。
「コナン君は……どうする?」
こほこほと咳をしながら、しゃがみ込んでパンクの状態を調べていたコナンは顔を上げ、立ち上がった。
「そうだね。せっかくこんなに天気もいいし」
見上げた太陽は、中天にあった。
「休んでた方が良くない?」
山荘に行ってから、コナンは体調を少し崩してしまった。平地と山の気温差に、うまく身体が適応できなかったのだ。
「たいしたことないし、暖かいから大丈夫だよ」
言いながら、コナンはパーカーを後部座席から引っ張り出して羽織った。
「お父さんと一緒に、車の中で寝ててもいいのよ?」
「大丈夫だってば。そこまで具合は悪くないよ。もう、蘭姉ちゃんは心配性だなあ」
コナンは笑って、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを手に持った。
「さあ、行こうよ」
「あ、待って!」
コナンがさっさと歩き出したので、蘭も急いで車の中からコートを取り、腕に抱えたままコナンの後を追いかけた。


街では決して聞くことのない鳥の声を聞きながら、蘭とコナンは背の低い草の上を軽快に歩いて行った。時々、目に付いた小さな草花をしゃがみ込んで見たり、そこに這い回る小さな虫を観察した。林の中へ入ると、上から木々の間を移動する生き物の音や、鳥の声が降ってきた。花をつけている木もいくつかあり、また若葉が芽吹いてきている木もあった。
あちこちを珍しそうに見回しては、見つけたものを指差し、連れに話す。そうやってしばらく歩くと、木の茂みが切れ、また開けた場所に出た。
「わぁ……」
そこは、先ほどいた場所とはまた違い、小さな花が一面に咲いていた。蘭は思わず駆け出し、いちばん花がたくさんかたまって咲いている場所にしゃがみ込むと、嬉々として名前のわかる花を探しだした。

無邪気に花と戯れている蘭を見て、コナンは既視感に襲われた。
(こんな風景…………どこかで…………)
コナンは記憶を探る。“工藤新一”の記憶を。 程なくして思い当たった。
これは、既視感ではない。
浮かんだのは、幼い頃の風景。何時だとか何処だとか、細かいことは覚えていないが、やはり草花が咲き乱れる場所で、2人でよく遊んでいた覚えがある。家の庭だったのか、近所の公園だったのか、空き地だったのか……。
その場所に着いて、花が咲いているのを見た瞬間、蘭の顔がぱぁっと晴れる。そして、走って行く。追いかけるように、自分も走る。気に入った場所を見つけて、座り込んで、夢中で花を摘んだ。摘んだ花は、蘭が丁寧に編んで首飾りや冠を作った。2人でそれを身につけて、日が暮れるまで遊んだ。
それは、一度や二度のことではない。毎日ではなかったが、春という季節には頻繁にそうして過ごしていたと思う。それが当たり前だった、日常。
コナンは、そんなことを思い出しながら、蘭を眺めていた。懐かしい思い出。ずっと続くと思っていた時間。………………しかし、今は。
「わぁっ、つくしが生えてるよ!ねぇコナン君、見て!」
そう言って、蘭は満面の笑みを浮かべてコナンを見上げた。コナンは、ぼんやりと突っ立っている……ように見えた。しかし、その瞳に宿る光は、さっきまでとは違っていた。
こちらを見ているのに、遠くを見ているような……でもやっぱり自分を見ている。微かな笑みを浮かべた瞳は、見ていると言うより、『見守っている』と言った方が正しいかもしれない。
コナンの様子を探るように見ている、不思議そうな蘭の視線に気付き、コナンは“今”に引き戻された。慌てて蘭に返事を返す。
「つくし?どこどこ?」
そう言った顔は、お互いに見つけたものを報告し合っていた、先ほどと同じ笑顔だった。……“あの頃”と同じように、コナンは蘭と同じ空間に戻って行った。
蘭はコナンにつくしの生えている場所を示し、コナンはそこを覗き込み、笑う。それを見て、蘭も笑った。本当に楽しそうな、眩しい笑顔。コナンはその笑顔を見て、思った。
この笑顔を、守りたい――――――と。

しばらく、2人は小さな草花に囲まれて遊んでいたが、コナンはふとあることに気付いた。
あの頃とは違う、蘭の様子。
昔の光景を思い出せば、そこで自分と蘭は、必ず花冠を身につけている。しかし今は、蘭はそれを作っていない。花を摘むことすらしていない。首飾りにするのに、十分過ぎる花があるのに。
コナンは気になって、ペットボトルの蓋を開けながら、なんとなく聞いてみた。
「蘭姉ちゃんは、花で首飾りとか作らないの?」
突然の質問に、蘭は驚いた顔をした。
「どうして?」
「だって女の子って、こういう花がたくさん咲いてる場所に来たら、絶対にいっぱい摘んで、首飾りとか冠とか作るんだもん。歩美ちゃんとか、そうだからさ」
身近な例を持ち出して、決して昔と比較して聞いているのではないことを示唆する。もっとも、コナンが蘭の幼少の頃のことを知っていると、蘭は思ってはいないだろうが。
「飲む?」と差し出された水を断って、蘭はぽつりと言った。
「悲しくなるから」
意外にも、蘭はあっさりと返事を返してくれたが、その内容にコナンは驚いた。
「えっ?」
「小さい頃はコナン君の言う通り、こんな場所に来たら必ずお花をたくさん摘んで……それで、首飾りとか作ってたよ。いっぱい自分に飾って、すごく楽しかった。でもね」
蘭は目を伏せた。それだけで、蘭の表情はそれまでとは一変してしまう。
「家に持って帰って置いておくと……花は枯れてしまうの」
蘭は辺りを見渡した。
「こんな風に、外で咲いている時は、すごくきれいで元気なのに。家に持って帰って……家でも元気に咲いていてくれるようにって、水に入れておいたりしたけど、やっぱりダメ。摘んだ花をそのまま持って帰って花瓶に生けても長持ちしない。首飾りなんかにしちゃったら、次の日には必ず枯れてて……」
そして、蘭はコナンの方を向いて言った。
「かわいそうで、悲しくなるの。でも、何日か経ったら、そのこと忘れちゃって、また摘んじゃうんだけどね。今はもう小さな子供じゃないから、何日経っても忘れない。だから、摘まないの」
口に含んで体温に変わった水を、ゆっくりと喉に流し込みながら、蘭の話を聞いていたコナンは、荒れた喉を潤すと口を開いた。
「でも……花はたくさんあるし、取り尽くすわけじゃないし、取るのは花だけで根っこから引っこ抜くわけじゃないし、また花は咲くじゃない」
そう言ったら、蘭は笑った。
「同じこと、お父さんにも言われた。それはわかるよ。首飾りを作って遊ぶのが、悪いことじゃなくて、すごく楽しいことだっていうことも知ってるし、わかる。でも……うまく言えないけど、わたしが悲しくなるのは、そういうのとはちょっと違うのよねぇ……」
ひらひらと目の前を通り過ぎる小さな蝶を目で追っていくと、その先に丸くて白く透けたものを見つけた。蘭は、それを躊躇うことなく手折った。
「タンポポの綿毛は、今も大好きだけど」
フッと蘭が息を吹きかけると、綿毛はひとつひとつばらばらに分かれて空に飛び立った。清らかな風に流されて飛んでいく綿毛を、蘭は笑顔で見送っていた。


それから、2人でタンポポの綿毛だけを探しては、飛ばして遊んだ。
もちろん、今まで同様、何か面白いものを見つけては教え合うことも忘れなかった。
まだ4月で、しかも山は平地よりは少し季節が遅れているから、綿毛の数はさほど多くはない。それでも2人は、いくつか取って遊んだだけで、それなりに満足していた。
そろそろ車に戻ろうということになり、蘭とコナンは来た道を戻り始めた。
戻る時は、来た時とはまた見えるものが違う。来る時は、上や下や近いところばかり見ていたので、その時は気付かなかったものが蘭の目に止まった。
上でも下でもなく、そのままの視線で木々の間を遠く見ると、その向こうには遠くの景色が見えた。木の向こうは、開けていて見晴らしが良くなっていたのだ。太陽の光に明るく照らされた平地が見え、田んぼや畑の間を通る道が見える。そこを走る車が、米粒よりも小さく見える。
「あっ、コナン君見て!ここから遠くの景色が見えるよ!」
少し先を歩いていたコナンが振り返り、蘭が見ている方向を見た。
「ホントだ。さっきは全然気付かなかったね」
蘭はもっとよく景色を見ようと、2、3歩、木々の方へと近づいた。と、その近づいた木の近くに、タンポポが生えている。その中に、綿毛があるのを見つけた。
「こんなところに、綿毛があるよ」
数の少ない綿毛を探しては取るという遊びを、さっきまでくりかえしていた。だから、綿毛を見つけたら取るというのは、もう習慣のようになってしまっていた。蘭は当然のように、その見つけた綿毛を取ろうと、さらに3歩、足を進めた。
「きゃあっ!」
3歩目を草の中に下ろした瞬間だった。突然、蘭の身体が草の中に沈んだ。
「蘭ねえちゃん!」
コナンは慌てて、蘭の近くに行こうとして、足を止めた。茂った草に隠されてわからなかったが、そこは急な斜面になっていた。蘭はこれに気付かずに足を踏み出したために、落ちてしまったのだ。
「蘭ねーちゃーーん!大丈夫ーー?」
コナンは斜面の下の方に向かって、叫んだ。草のせいで、蘭の姿が見えない。
「大丈夫よ、コナンくーーん!」
思ったよりも近くで声が聞こえて、コナンはホッと息を吐いた。そして、自分もゆっくりと、蘭が落ちたところから斜面を下りていった。
斜面は湿っていて、滑りやすくなっていた。コナンも時々、足を取られそうになる。慎重に下りていくと、勾配がゆるやかになったところに蘭の姿が見えた。蘭は、その場に座り込んでいた。腕や背中が汚れている。落ちてから起き上がって体勢を整え、座り直したところだった。
「大丈夫?蘭ねえちゃん」
コナンが蘭のすぐ近くに来る間に、蘭は身体の状態を調べていた。
「ちょっとすり傷ができちゃったみたいだけど……たいしたことないよ」
蘭が指差す場所を見ていくと、言う通りいくつかすり傷が出来ていた。少しだけ血が出ていたが、確かにたいしたケガではなさそうだ。
コナンは、パーカーの内側、ポケットの裏側に挟み込んであったペットボトルを引っ張り出した。ペットボトルの蓋を開け、できるだけ節約しながら水をかけて、傷口についた泥を洗い流した。ハンカチで軽く拭き取ると、傷口はきれいになった。
コナンは、服のあちこちのポケットを探りながら言った。
「絆創膏みたいなものはないな………まぁ、これくらいのケガなら、乾かしておいた方が早く治るかな」
コナンは蘭が立ちやすいように、軽く蘭の手を引っ張った。
「ありがと……痛っ!」
手を引かれて立ち上がろうとしたその時、蘭が叫んだ。
「どうしたの?」
心配そうに覗き込んだコナンは、右足首を押さえる蘭の手を目にした。
「足が痛む?」
「うん……捻挫したかも」
力無く言う蘭をそのままに、コナンは蘭の右足から靴と靴下を脱がせた。触れてみると、足首は熱を持っている。軽く足首を動かしてみて、蘭の反応を見た。
「……捻挫みたいだね。ちょっと待ってて」
コナンは先ほど使ったハンカチを再び取り出すと、それを歯を使って裂きだした。蘭は不思議そうにその様子を見ていたが、ハンカチが細長い布に変わっていくのを見て、コナンが何をしようとしているのかがようやくわかった。
コナンは蘭の足首に、丁寧に裂いた布を巻いていく。巻き終わると、再び靴下と靴を履かせた。
「これで、歩く時の痛みはかなりマシになるはずだよ」
コナンに助けられながら、蘭はゆっくりと立ち上がり、少し足踏みしてみた。コナンが足首を固定したおかげで、確かにさほど痛みは感じない。
「コナン君、ありがとう」
蘭はコナンの手際の良さに、感嘆して言った。
「さあ、帰り道を探そうか」

見上げてみると、元いた場所はかなり上の方であるらしい。下りてきた斜面は、急勾配でもあるし滑りやすくもある。応急処置をしたとは言え、この高さを蘭が登るのは困難を極めることであろう。コナンが登るのも、決して容易ではなさそうである。
元いた場所から見えていた遠くの風景は見えない。辺りは木ばかりで、空もあまり見えなかった。とりあえず、比較的木が少なく通りやすそうな方向へ行くことにした。方角的には、小五郎の待つ車のある方角である。このまましばらく進んで、斜面の勾配がゆるやかな場所まで行くことができれば、そこを登って車に戻ることができるだろうと、コナンは考えた。

蘭のペースに合わせ、コナンも歩く。不安を抱えつつ歩く蘭は、すっかり口数が減ってしまった。先ほどまでと同じようにコナンは蘭に話しかけてはいたが、もうかなりの距離を歩いた……と思う……のに、一向に上へ登れそうにはない。かと言って、山を下りられそうにもない。コナンはブルッと震えた。
(……………………ヤバいな…………)
ここで初めて、コナンの中に焦りが生じた。肩が重く、関節が軋んでいるような感覚に襲われ、背中に悪寒を感じた。日陰で気温が低いのと疲労がたまってきているせいで、風邪の症状が再び出てきたのだ。
ちらっと蘭の顔を見ると、その表情に疲労の色が浮かんでいる。足も痛むのであろう。額に汗が浮かび、歩くのが辛くなってきている様子が見て取れた。
実際、蘭の疲労は色濃かった。道なき道を歩くのは、ケガした足には負担が大きい。コナンの応急処置で、最初は大丈夫かと思われたが、やはり長い時間歩き続けていると、次第に足が痛み出してきた。右足首が熱くなっているのがわかり、そこで鼓動を感じる。痛みに耐えて歩くため、額からは脂汗が流れていた。しかし、コナンは風邪気味で無理をしてはいけない身体だし、待っている小五郎も心配するだろう。急いで車に戻らねば、という強い気持ちが、蘭を立ち止まらせなかった。
「蘭姉ちゃん。少し休憩しようか?」
コナンは立ち止まって、蘭に言った。
蘭は一瞬、どきっとしてコナンを見た。自分の状態を見透かされている。蘭は心の中で苦笑した。相変わらず、この子供は鋭い。
「大丈夫よ。まだ歩けるから」
蘭は明るい調子でそう言ったが、顔色の悪さは隠せなかった。
「でも―――――?」
コナンが何か言いかけた時、コナンの額に冷たいものが落ちてきた。それに触れて、指を見てみると、それは水だった。天を仰ぎ見てみたが、枝と葉ばかりで空はよく見えない。しかし、樹上はすっかり黒い雲で覆われているようだった。木々の葉を細かく打つようなぱらぱらという音が、蘭とコナンを包みだす。コナンは舌打ちして呟いた。
「雨……」
「あんなにいい天気だったのに……?」
「“山の天気は変わりやすい”って、本当だね」
おそらく、かなりの距離を歩いているため、位置的に車のある場所を通り過ぎていると思われる。今ここで無理に斜面を上がっても、確実に車まで辿り着ける保証はない。太陽も見えず、正確な方角を知る術もない。
コナンはひとつ息を吐き、辺りの様子を見回した。自分たちの今いる場所、今歩いてきたところは、木が生えていないところだった。周りに比べ、草の背丈も低い。道なき道と思っていたが、おそらくここは獣道なのであろう。よくよく見ると、真ん中辺りの草が少し盛り上がっていて、その両側はやや低い……ように見えた。
もしこれが“轍”であれば、ここは車が通ったことのある……人間が通ったことのある証拠である。ほんの少し見えた光に、コナンは気力を得た。
「蘭姉ちゃん。ここは、人が通ったことがあるかもしれない“道”みたいだよ」
コナンは蘭に、その理由を説明した。
「このままこの道を進んで行ったら、どこか人のいるところに行けるかもしれない。でも、雨が降ってきたから、とにかく、雨宿りできるところを見つけないと。蘭姉ちゃん、もうちょっとがんばれる?」
蘭はこくんと頷いた。蘭もまた、少しだけ気力が湧いた。
コナンはふと気付いて、自分が着ているパーカーを脱いだ。蘭が着ているコートには、フードがついていない。コナンは蘭の頭に、パーカーのフードを被せた。雨に濡れないように。
「コナン君!これじゃ、コナン君が……」
「ボクは大丈夫だよ」
蘭の言いたいことを遮るように、コナンはにっこりと笑って見せた。
「雨宿りするところ見つけたら、返してもらうからね」
2人は再び、歩き出した。

頭上を枝が覆い、木の葉がたくさん茂っているため、2人の身体に降り注ぐ雨の量はかなり軽減されていたが、それでも雨足が強くなってくると、少しずつではあるが確実に服を濡らしていった。コナンも蘭も、辺りをきょろきょろと見渡しながら、雨宿りできそうな場所を探していたが、どの木の下も、十分に雨露をしのげる状態ではない。今歩いている獣道とそう変わらなかったため、結局2人はまだ雨の中を歩いていた。
どれくらいの時間、歩いているだろうか。かなり経っているような気もするし、あまり経っていないような気もする。時計を持ってはいたが、見たところで余計に疲れと焦燥感を感じてしまいそうだったので、敢えて見ることはしなかった。
普段からスポーツをしていて、人よりは体力のある2人ではあったが、さすがにこの雨の中、足下の悪い場所を歩き続けるのは、いつもの数倍体力を消耗する。雨は体温を奪い、時折吹き付ける冷たい風が追い打ちをかける。精神的にもゆとりはない。珍しい鳥の姿が見えようが、山桜が咲き乱れていようが、つい先刻まで太陽の下にいた時のように、それに対して何かを言い合うことはなかった。ただひたすらに、休める場所を探して黙々と歩く。足はすでに、鉛のように重かった。手足の先は冷え切って痺れ、感覚がない。
体力的にも、精神的にも、もう限界だった……いや、限界はとうに超えているかもしれない。だが、立ち止まれば終わってしまう可能性がこれ以上なく高かった。だから、立ち止まらない。こんなところで倒れるわけにはいかない、とコナンは自分に言い聞かせ続ける。蘭を守れるのは、自分しかいない。“守りたい”と思った、その意志を貫かねば。

もしも、蘭が組織に狙われたら。その時は、今の状態の比ではないくらい極限に追い込まれるかもしれない。それでも、守らなければ。半端な規模ではないらしい、謎の多い組織を潰すのは、自分だけの力では無理かもしれない。しかし、それだけの規模の組織であれば、警察内部に内通者がいても不思議ではない。良く知る刑事達を信じないわけではないし、どちらかと言えば信じている方だが、だからこそ、巻き込みたくはない。やはり、頼れるのは自分だけなのだ。

いつか来る、最も危険な試練のことを思えば、今置かれている状況などたいしたことのないように思えてくる。そうして、コナンは気力を維持し、歩き続けていた。
ふと、遠くの方に視線を飛ばすと、ゆるやかにカーブしていく獣道のすぐ脇に、これまでには見かけることのなかった大木が生えているのが目に入った。あの木の下なら、休めるかもしれない。
「蘭姉ちゃん、あそこの木の下で雨宿りできるかもしれないよ!」
久しぶりに発された声は、明るい含みを持っていた。俯いていた蘭の顔が上がり、コナンの指差す方向に向けられる。
「ボク、先に行って見てくるから、蘭姉ちゃんはゆっくり来てね!」
そう言って、コナンは蘭の返事を聞く間もなく、小走りに大木へと向かった。走る余力が、まだ残っていたのかと自分でも驚いた。蘭もまた、重く痺れた身体が、足が、少し軽くなった気がする。希望というのは、こんなにも人に力を与えるものか。
程なくして、コナンは大木の根元に到着した。思った通り、木の下の土は濡れていない。コナンは、土から顔を見せている太い根の上の砂を簡単に払い、蘭の到着を待った。
徐々に蘭が近づいてくるのを、コナンは見守っていた。そして、気付く。今までずっと、蘭の隣を歩いていたから気付かなかったが、蘭の顔色はかなり悪くなっており、表情は疲れに染まっていた。動きもぎこちなく、右足は引きずっている状態である。
コナンは、再び蘭の右に駆け寄った。自分を杖代わりにするようにと蘭に肩を貸し、少しでも蘭の負担を軽くしようとした。子供の身体で、蘭とは体格の差がありすぎるため、自分がどれほど役に立っているのかは疑問だったが、それでも、肩にかかる蘭の体重はかなり重かった。
ようやく、蘭も大木の元に辿り着いた。コナンがさっき砂を払った根に蘭を座らせると、蘭はゆっくりと幹に身体を預け、大きく息を吐いた。
深く荒い呼吸を繰り返しながら、蘭は頭に被せられていたコナンのパーカーを脱いだ。それは、予想以上に濡れていた。その代わり、蘭の頭はほとんど濡れてはいなかったが。
「内側にペットボトルがあるから」
コナンは蘭の右足の様子を診ながら、蘭に言った。蘭は一瞬、何のことかわからなかったが、不意に思い出し、コナンのパーカーの内側を探って、ペットボトルを引っ張り出した。それには、もう半分くらいしか水が残っていなかった。蘭は少しだけ、水を飲んだ。
蘭の右足は、かなり酷い有様だった。雨の中を長時間歩き続けたため、靴も靴下も、そしてジーンズの裾は泥だらけである。それは、コナンも同じであったが、何より右足首の捻挫が悪化している。ずぶ濡れの靴下の上から触っただけで、そこが高熱を持ち、腫れ上がっていることがわかるくらいだった。
「ありがとう……コナン君……」
水を飲んで少し落ち着いた蘭が力無い声で言いながら、コナンにペットボトルを差し出した。コナンはそれを受け取り、水を一口だけ口に含んで、ゆっくりと喉に流した。と同時に、背筋に悪寒が走っているのを思い出してしまった。それを機に、身体の節々が軋み、重くなる。わずかではあったが気をゆるめてしまったため、今まで忘れていたことがどっと押し寄せて来たのだ。
それは、蘭も同様だったようで、蘭は大木に寄りかかって、もうすでにぐったりとしていた。
蘭の隣に腰を下ろしかけたコナンの耳に、雨の音が谺する。
“山の天気は変わりやすい”
そう言ったのは、自分だったか。正直、歩きながら、すぐに雨が止むのではないかと思っていたが、この雨はまだ止んでくれそうにはない。雨のために下がった気温は、これから夕刻を迎え、日没を過ぎればさらに下がるであろう。
濡れた身体は冷え切っていて、体力は消耗し尽くしており、おまけに身体の状態は悪い。やっと見つけた休憩場であったが、このままここで座り込んでいるのは得策ではない。
今ここに座り込んでしまったら、おそらく二度と動けるようにはならないであろう。コナンは下ろしかけた腰を再び伸ばして、両手で2度、自分の顔を叩いた。数回深呼吸し、心を落ち着けて考える。今、何をどうすべきか。
濡れた服を着たままでは、体温が奪われる一方だが着替えはない。蘭の足の手当をしたいが、包帯になるようなものはもう使ってしまった。身体を温めるためにも、服を乾かすためにも、必要なのは火だ。しかし、この雨の中で、果たしてうまく火をおこすことができるのか。
コナンはとりあえず、何か燃やせそうなものがないかと辺りを見回した。大木の下、雨に濡れていない場所には、小枝や葉が落ちてはいたが、小さすぎるし量もない。最初に火をおこすときには使えるかもしれないが、薪のようなものがなければ、火は長持ちしない。しかし、薪になりそうな枝は、すべて雨に濡れたところにある。
コナンは、視線を徐々に遠くの方へと飛ばしていった。ゆるやかな曲線を描く獣道は、まだ先へと続いているようだった。道を視線で追っていくと、その先が少し明るくなっているように見えた。気のせいだろうと思いつつ、よくよく見てみたが、やはり明るい気がする。その先の雰囲気が、今まで歩いてきた道と違うような気がして、コナンは気になって仕方なくなってしまった。
「すぐに戻るから。蘭姉ちゃんはここで待っててね」
そう声をかけたが、目を閉じてまだ荒い呼吸を繰り返している蘭からの返事はない。微かにうなずいたような気はしたが。
コナンは、疲労のために今にも固まってしまいそうな身体を意識的に動かして、再び雨の道を歩いて行った。

目指すものがあると、疲れ果てていても足は動いてくれた。カーブを曲がり切ったところで、コナンは思わず目を細め、次の瞬間、見開いた。
そこは、唐突に開けた場所になっていた。かなり広く、平坦な場所で、木がないので空が広く見える。大木の下からこちらを見た時、雰囲気が違うと思ったのはこのためだった。ぐるりと首を巡らせて、視界に入ったものに驚いた。
こんなところに、家があった。今まで歩いて来た道は、やはり人も通る道だったのだ。自分の推理が当たっていたことに安堵しつつ、コナンは迷うことなく家の方へと向かった。
よく見れば、家の周りには古びた柵や何かの道具がある。古びてはいるが、朽ちてはいない。入り口まで来たところで、コナンは声をかけてみたが、返事はなかった。
何度か呼んでみたが一向に返事がないので、コナンはドアを開けてみた。ドアには鍵が掛かっておらず、わずかに軋む音をたててすんなりと開いた。中を覗き込むと、古い家独特の、少しほこりっぽいような匂いと、木の匂いがした。外よりも幾分ましな室温に、ホッと息を抜く。そして、家の中を見回した。
家……というより、そこは作業小屋のようだった。床は黒い板張りで、そこかしこに色々な道具が置いてあった。木材もあった。それらのことから、ここでは山で何かの作業をする拠点となる場所であり、山で切ってきた木をここである程度加工しているような場所であることが推察された。部屋のすみには、暖炉のようなものがあった。
道具はよく手入れされてるようで、ホコリなどはかぶっていない。床にも、たいしたゴミが落ちている様子もない。普段から、人の出入りがそれなりにある場所に見えた。今日は、山の作業は休みなのであろうか。小屋には誰もいないようであった。
ここでなら、助けを待つことができる。
コナンは急いで、蘭の待つ大木の元へと踵を返した。

急いで行きたいのに、疲弊した身体は逸る気持ちについていかない。コナンは何度も足がもつれて転びそうになりながら、それでもなんとか、蘭の元へと辿り着いた。
蘭は、コナンが去った時から全く動いていないようで、同じ姿勢でぐったりと木にもたれかかったままだった。コナンは蘭の身体に手をかけ、すこし揺すりながら蘭に声をかけた。
「蘭ねーちゃん、大丈夫?」
眠っているわけではなかったようで、蘭はすぐに、ゆっくりと目を開いた。
「もう少し向こうの方に行ってみたら、小屋があったんだ。あそこまで行けば、ゆっくり休めそうなんだけど……立てる?」
蘭はうなずいて、渾身の力を振り絞り、コナンに助けられながらなんとか立ち上がることができた。しかし、その右足には力が入っていない……入れられないようであった。コナンは蘭の右側に回り、先ほどと同じく蘭を支えながら、ゆっくりと歩き出した。
蘭の状態は、さっきよりも悪くなっていることが見て取れた。コナンの肩を掴む手が熱く、それが濡れた服の上から伝わってくるほどである。捻挫の状態も酷くなっているようで、どうやら発熱しているらしい。急いで小屋に行きたかったが、急げる状態ではなく、結局小屋に辿り着いたのは、さっきコナンが一人で小屋を見に行ったときの、5倍以上の時間が過ぎた頃であった。

ようやく、小屋の中に入り、暖炉の近くで蘭は倒れ込んだ。話しかけてもほとんど返事はなく、かなり意識が混濁しているようだった。コナンはまず、蘭のずぶ濡れのコートを脱がせ、小屋の中にあった薄い毛布のような布を着せた。暖炉の近くには、薪や火をつける道具が一通り揃っていたので、そのお陰ですぐに火をつけることができた。火が順調に燃え上がっていくのを見てから、コナンは蘭の捻挫の手当をした。幸い、小屋の中に数枚手拭い大のタオルがあったので、それを裂いて包帯にする。すっかり腫れて熱を持った右足首に、丁寧にそれを巻いていった。
それが終わると、コナンは蘭の頭に被せていた自分のパーカーを、小屋の外の柵に結びつけておいた。こうすれば、今ここに自分たちがいるということが、探しに来た小五郎や他の人にもわかるであろう……おそらく、すでに車の修理屋が小五郎の元に到着して、昼寝から覚めた小五郎が、自分たちが帰ってこないことに気付いて捜索を始めている頃である。それほど、時間は過ぎていた。
コナンはペットボトルを手に持って、暖炉の前、蘭の近くにようやく座り込んだ。水を一口、口に含んで喉に流し込み、蓋を閉めるのと同時に、ぐらりと視界が揺れた。
「あ……」
ヤバい、と咄嗟に思ったが、その直後に意識は途切れ、コナンはその場に崩れ落ちた。





蘭の身体にかけられていた布が落ちた。それに気付く様子もなく、蘭は右足を引きずりながら、まっすぐにコナンの側へと這って行った。
「コナン君……?」
もう一度、蘭は呼びかけてみた。しかし、コナンがこちらを振り返る様子はない。丸められた身体を乗り越えるようにして、コナンの顔を覗き込んだ蘭は、その表情を見てハッとした。
コナンの瞳はぎゅっと閉じられ、眉は苦痛に歪んでいた。半開きになった口からは、荒い呼吸が繰り返されている。
「コナン君、大丈夫?しっかりして!」
蘭は思わず叫んで、コナンの身体に触れた。その瞬間、また驚く。コナンの身体は、あまりにも熱かった。
「ひどい熱……」
改めてコナンの額に手で触れて、蘭は呟いた。思い出してみれば、そもそも、コナンは風邪を引きかけていた。それなのに、あれだけ雨に濡れ、不慣れな山道を長時間歩き続けたため、体力をひどく消耗している。どうにかならない方がおかしい。
蘭はきょろきょろと辺りを見回し、自分が落とした布に気付いた。落ちていた位置から、それはさっきまで自分が着ていて、着せてくれたのはコナンであろうことを蘭は察した。とりあえず、その布をコナンに着せる。
「どうしよう……どうにかしなくちゃ……」
そう思っても、自分の家とは違い、手当てする道具が何もなさそうなこの小屋で、どうすればいいのか皆目見当がつかない。蘭はただ無闇に辺りを見回し、パニックに陥りかけたが、暖炉に燃えさかる炎を見て、気がついた。
この火は、どうして燃えているのか。
さっきから小屋の中ばかりを見ているが、自分たちの他に人のいる気配はなさそうである。また、誰かが住んでいて、今は出かけているが、そのうち帰ってくる、ということもなさそうだった。ということは、この火はコナンがつけたのだろう。
そういえば、と、蘭は記憶を遡った。ここにコナンが連れて来てくれた時、意識が朦朧としていたため、あまりよくは覚えていないが、部分部分だけ思い出せる。ここに来る前に、ようやく見つけた大きな木の下で雨宿りして、それからはコナンに引きずられるようにしてここに連れて来られた。中に入ってからしばらくは、コナンが何やら忙しそうに動き回っていたような。
最初は、確かに火はついていなかった。自分がこの暖炉の前に倒れ込む、その直前に見た、火のない暖炉の風景は覚えている。ということは、やはりこの火は、コナンがつけたのだ。
自分の身体も相当辛かったはずなのに、それに鞭打って火をつけ、蘭の足の包帯を取り替え、濡れたコートを脱がせて布を着せてくれたコナンは、おそらく自分の手当は何一つしなかったのだろう。外を歩いていた時と同じ格好で、ここに横たわっているということは、自分のことをする前に、力尽きて倒れてしまったということか。
蘭は自分の不甲斐なさに、唇を噛んだ。また、この小さな少年に助けられた。本来ならば、年上であり、力もあるはずの自分の方が、この少年を守るべきなのに。
いつもいつも、コナンに守られてばかりいる。急斜面を落ちて、足を挫いて……それが自分だけだったなら、何もできずにただ冷たい雨の中に蹲っていただけかもしれない。ここでこうしていられるのは、コナンがずっと側にいて、自分を助けてくれた結果だ。
そのコナンが、今は窮地に陥っている。今度こそ、自分がコナンを助ける番だ。花のたくさん咲く草原で見た、コナンのあの瞳。ああして、いつも見守られているのは、心地よく思うこともあるが、心のどこかでいつも、何かが違う、と思っていた。それは、こういうことなのだろう。自分にも、できることはたくさんあるはずだ。
蘭はひとつ大きく深呼吸してから、気合いを入れるようにキッと辺りを見据えた。そうして改めて小屋の中を見ると、ただただおろおろして辺りを見回していた先ほどとは違い、いろいろなものが見えてきた。コナンの横に転がるペットボトル、木材に引っかけられて干されている自分のコート、数枚のタオル……。
もっと調べてみようと、蘭は立ち上がりかけた。と、その瞬間、頭がぐらりと揺れてよろける。なんとか座り込まずに持ちこたえ、ひとつ間を置いてから、もう一度足を踏ん張って立ち上がった。
体調が完全に戻っているはずがないことはわかっている。まだ悪寒はするし、右足首は鼓動が打たれるたびにジンジンと痛みが響く。しかし、コナンもひどい体調だっただろうに、無理をしてくれたのだ。そのおかげで、ここまで動けるようになったのだから。
蘭は、戸を少し開けて、外を見てみた。流れ込んできた冷たい空気に思わず身を竦める。外は真っ暗で、もうすっかり夜になっていた。雨の音が聞こえ、その強さからかなりの降りであることが窺えた。今、外に出ることは不可能だ。
戸をしっかり閉めて、今度は小屋の中を調べる。何か使えそうなものはないか探してみたが、布団代わりにできそうなものは、さっき蘭が着ていて、今コナンにかけてある布くらいしかないようだ。コナンが干してくれたのであろう、自分のコートを触ってみたが、重く湿っていて使い物になる様子ではなかった。すぐに使えそうなのはタオルくらいである。蘭はそれを取り、コナンの側に膝をついた。
苦しそうな表情を浮かべるコナンの汗を拭おうとして、蘭は左手でコナンの頭に触れた。コナンの髪は濡れていた。それが、雨に濡れたためなのか高熱による汗のためなのかはわからなかったが、いずれにせよ放置しておいて良いような濡れ方ではなかった。頭と額と顔と、蘭はタオルで順に汗を拭いていったが、首筋を拭いた時にコナンの襟首に触れ、新たな問題に気付いた。
コナンの服は、全身がひどく濡れたままだった。外側は雨で、内側は汗で、ぐっしょりと濡れてしまっている。すぐに着替えさせなければならない。……しかし、着替えはない。
そこまで考えが至った蘭は、自分もまたひどく汗をかいていて、中に着ているシャツがじっとりと湿っていることを思い出した。動けるようになったとはいえ、蘭もまた発熱している。今動けるのは、気力によるものだ。無理をすれば、蘭もコナンのように倒れてしまうだろう。
着替えが必要なのは、蘭も同じであった。蘭は、自分の服の状態を確認した。ジーンズの足下は泥が跳ねて濡れていて冷たい。コートを着てはいたが、薄手のセーターも雨と汗で湿っていた。そして、中に着ているシャツは使い物にならない。
自分の服を、コナンに着せようと思ったが、どうもそれも無理のようである。タオルでは着替えにはならないし、コナンの汗を拭くために使ってしまったため、使えるのはあと2枚。薄い毛布のような布を被ればなんとかなりそうではあったが、それは1枚しかない。
その1枚を、コナンに使えば、自分は濡れたままで、さらに体調を崩してしまうことは確実である。自分に使えば、コナンが濡れたままになり、コナンの不調に輪を掛ける。
どうしたものかと思案に暮れていると、背中をぞわっとした感触が通り過ぎた。急に寒気に襲いかかられ、蘭の身体は小刻みに震えた。……寒い。もっと身体を温めたい。温かいものが欲しい。
蘭は、暖炉の中に薪を3本投げ入れた。新たに入れられた薪は、ぱちぱちと音をたてて燃えていき、炎が少し大きくなった。だが、いくら炎を大きくしても、濡れた衣服を身にまとっている限り、身体が芯からあたたまることは決してない。
問題が目の前にどんどん山積していき、蘭は途方に暮れかけたが、とにかく、今やるべきことをやるしかない。蘭はコナンの身体を拭こうと、コナンのシャツのボタンを外しかけた。
「ら…ん……ね……ちゃん……?」
蘭が自分に何かしていることに気付いて、コナンは薄く目を開けた。コナンが気がついたことに、蘭は安堵して思わずホッと息を吐いた。
「今、コナン君の汗を拭いてあげるから。ちょっと寒いかもしれないけど、すぐ終わるからね」
そう言ってにっこり笑った蘭の顔を見て、コナンは再び瞳を閉じた。コナンの呼吸は相変わらず早く、苦しそうである。今、コナンが目を開けて声を出したことを、果たして本人は自覚しているのか、また、蘭の声が聞こえていたのかどうかはわからない。眠っていると言うよりは、意識を失っていると言った方が正しい状況だ。
シャツのボタンを全て外し終えた蘭は、コナンの身体をタオルで丁寧に拭いていった。体表に汗が滲んでいるのがわかるほど、コナンは汗をかいていた。背中を拭こうとしてコナンの身体に触れると、その身体はひどく熱かった。……が、蘭の手にはそれがとても温かく、心地よく感じた。
「ああ、そうか……そうすれば、いい…………」
蘭は、今抱えている問題を解決する糸口を見つけ、呟いた。

蘭は、コナンの服をすべて脱がせ、唯一ある大きな布をコナンの身体に巻いた。脱がせた服を改めて見ると、シャツもズボンも水分を含んで重く、冷たい。よくもこんなものを今まで身につけていたな、と蘭は痛々しく思いながら、それを暖炉の近くの木材に適当に引っかけて干した。
次に蘭は、自分も服を脱ぎ始めた。コナンの服ほどではないが、蘭の服もまたよく湿っており、脱いでは暖炉の近くに広げて干していった。下着に至っては、絞ると水が出るのではないかと思うくらい、汗でひどく濡れていた。蘭はタオルで身体の汗を拭きながら、身につけていたものを全て取り去ると、すぐにコナンの身体を抱いた。少しでも早く、寒さから逃れるために。
コナンの身体から布を取り、蘭はそれを身にまとった。悪寒に震えるコナンの身体を抱きしめると、熱い体温が何よりも温かく感じた。暖炉の真ん前に移動して、薪を炎の中に放り込む。それから、すきま風が入り込まないように、しっかりと自分とコナンに布が被るようにした。
寒いが、熱い。熱いが、寒い。しかし蘭は、心が満たされていた。こんなにも酷い状況だと言うのに。
膝にコナンの体重を感じて、身体全部で抱きしめて、いつもより数段熱い体温を感じる。この手の中に、コナンがいる。それが、コナンを“守っている”のだと思って満足している。
それは、単なる自己満足なのかもしれない。誰かを“守る”ということは、“守られる”ことよりも数段心地良い。“守っている”という行為をしていると思い込むだけで、至極崇高なことをしている気分になって、自分に酔うのだ。
蘭は、コナンの気持ちがわかるような気がした。いつも自分を守ってくれるのは、コナンにも少なからずそういう気持ちがあるのだろう。もしそうならば、彼はまだわかっていないことがある。……彼はまだまだ未熟だ。
そう思うと、妙にコナンのことが愛しくなった。子供故にそれは当然のことだとわかってはいつつも、コナンは普通の子供とはどうにも違う。自分と同等という意識がどうしてもついてまわってしまう。例えコナンがそれに気付いていても、気付いていなくても、彼は変わらずに自分を守ってくれるのだろう。意識をなくして倒れるまで。
蘭の腕の中で、コナンが身じろぎ、咳をした。咳はなかなか止まらず、コナンは苦しそうな表情を浮かべる。ずっと口が半開きのままで、熱い息を漏らしていたため、喉が乾いてしまっているのだ。
蘭は、転がっていたペットボトルを拾い、ふたを開けてコナンの口元につけた。
「コナン君、お水よ」
声をかけて飲まそうとしたが、コナンは飲もうとはしなかった。自分で飲む力さえ、失っているようだった。
蘭はペットボトルを傾け、コナンの口に水を流し込もうとしたが、ふと思いついてそれをやめた。このまま水を流し込めば、突然入ってきた水で、コナンは咽せてしまうだろう。それに、口の中にだけ入るように水を流し込むのは、この体勢では至難の業である。水を零せば、身体や布が濡れて、また冷たい思いをしなくてはならない。それに、今は外に雨水を汲みに行けないから、ここで水を無駄にするのは得策ではない。
蘭は自分の口に水を含むと、いつもコナンがそうしていたように、しばらく置いた後ゆっくりと飲み込んだ。ぬるくなった水が、喉を潤しながら流れて行き、気持ちが落ち着いていく。蘭は、もう一度水を口に含んでしばらく置いた後、今度はコナンの乾いた唇に口づけた。
ゆっくりと少しずつ、コナンの口内に水を流していくと、コナンの喉がこくっと鳴り、コナンは水を飲んだ。それを何度か繰り返しているうちに、コナンの唇の温度は次第に低くなり、潤ってきた。それを自分の唇で確認した蘭は、飲ませるのをやめるかどうかを見極めるために、少し顔を離し、コナンの顔を覗き込んだ。
蘭が水を飲ませるのをやめたためか、コナンは薄く目を開けた。まだ、意識ははっきりせずに、ぼんやりとしている。だがしかし、さっきの心地よい感触が欲しくて、コナンは朦朧としたまま無意識に漏らした。
「……もっ…と…………」
それを聞き、蘭は再び水を口に含んでコナンに与えた。また何回か繰り返しているうちに、コナンは蘭の唇を吸うようにして水を飲むようになった。その力が強くなるにつれて、蘭の意識もまた次第にぼんやりとしてきた。
「……もっと……………」
何度目かのコナンの要求に、蘭は申し訳なさそうに答えた。
「もう……お水なくなっちゃったよ、コナン君……」
高熱のためにコナンが水を欲しがるのは当然のことで、欲しがらなくても飲ませるべき状態でもある。蘭が外に水を汲みに行こうかどうかを思案しかけたその時、コナンが呟いた。
「……なくても……いいから……」
「?」
蘭がその言葉の意図するところを考えていると、不意にコナンの手が伸びてきて、蘭の頬に添えると、蘭の顔を引き寄せて口づけた。一瞬、蘭は驚いたが、それに逆らおうとはしなかった。熱を持ち潤ったコナンの唇が気持ち良くて、ぼんやりしかかっていた意識はすぐに溶けてしまう。目眩のような感触を感じると同時に、蘭は体勢を保っていることができなくなり、床に広げてあったセーターの上にコナン共々倒れた。
口内を探ってくる舌が熱い。その熱を受け止めたくて、蘭もまた舌で触れた。息苦しくなって蘭が唇を離すと、コナンは蘭の胸に顔を埋め、一度だけ柔肌を軽く吸うと、そのまま眠ってしまった。
蘭もコナン同様そのまま眠ってしまいそうになったが、肌寒いのに気付き、布をコナンと自分にしっかりと被せた。丸まったコナンの身体を抱き込むように自分も丸くなると、目蓋が勝手に落ちていった。



翌日、雨が止み、日が高くなってきた頃に、コナンと蘭は捜索隊に発見され、無事保護された。すぐに病院に運ばれ、しばらくは安静を強いられたが、数日後には2人とも退院することができた。退院する直前や、家に帰ってからも、小五郎に何かの折りにつけて説教を食らう羽目になったが、神妙な態度を取っていたのは最初の1回だけで、後は2人とも適当に聞き流していた。そのため、小五郎も次第にそのことについては触れなくなっていった。

それから、数日経った休日の昼下がり。外は、燦々と太陽の光が降り注ぎ、暑いほどに暖かかった。開け放った窓から外を見ながら、蘭は言った。
「いい天気ねえ。コナン君、散歩に行かない?」
部屋の中で本を片づけていたコナンは、笑いながら言った。
「いいけど。また崖から落ちないでね」
「落ちたのは崖じゃないもん」
むくれて答えながら、蘭は笑った。
すっかり体調も戻って、この前よりも薄着で外に出た。陽射しはもう刺さるようだったが、日陰に入ると清涼な風が吹いていた。あの日、2人で山の中を歩きながらそうしていたように、街の中でもまた、春を見つけてはお互いに報告し合っていた。
そうして歩いているうちに、コナンと蘭は提無津川の堤防に着いた。河川敷の公園には入らず、少し外れた空き地に下りた。そこは、草花が咲き乱れている場所だった。歩き疲れた2人は、草原の中に座り、とうとうと流れる川を眺めた。
「コナン君、ありがとう」
不意に蘭が言ったので、なんのことかわからず、コナンは蘭の顔を見た。
「山で助けてくれて……ううん、いつもいつも助けてくれて、ありがとう」
「……………………」
コナンは、蘭の感謝の言葉を、素直に受け取ることが出来ずに、黙った。正直、コナンはあの日のことを…………正しくは、あの日の自分を良しとしていなかった。
蘭を守ると心に決めていたのに、志半ばで倒れてしまった。結果的に助かりはしたし、他の誰かに危害を加えられるというような状況ではなかったから良かったものの、これでは守ったとは言えない。そんな自分が腹立たしく、また、情けなくもあったのだ。
そんなコナンの心中を知ってか知らずか、蘭は言葉を続けた。
「それとね。コナン君が元気になって……わたしが、コナン君を助けることができて、嬉しかった。ありがとう」
それを聞き、コナンはえっ、と顔を上げて蘭を見た。蘭は、川の方を見たまま、微笑っていた。少し頬が紅いのは、この暑さの中歩いて来たためなのか。どことなく、はにかんでいるように見えた。
蘭が今言った、言葉と感謝。それの意味するものは一体…………?
暖かい風が通りすぎる。空高く飛び上がって鳴いている鳥の声が聞こえる。あの日のように、決して天気が崩れないであろう、見渡す限りの空は快晴。飛んでいた鳥が降り立った、そこには草花が咲いている。
…………そうか。
コナンは声もなく、呟いた。
何よりも……命よりも大切な宝物を、頑丈な箱にしまっておけば、壊したり無くしたりはしないだろう。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。
そうやって、大切に大切にされたいと思う、宝物もあるかもしれない。しかし、そうでない宝物もあるんじゃないだろうか。
自分の持つ力を、輝きを、精一杯発揮してこそ喜びを感じる宝物もあるのではないのだろうか。
「花って、さ」
しばしの沈黙の後、コナンは目の前に咲いている無数の花を見ながら言った。
「そのままで自然に枯れるまで咲き続けたいと思っている花もあれば、摘まれて首飾りにされたいと思ってる花もあると思うんだよね」
「うん?」
蘭はコナンの言わんとするところがよくわからず、コナンの顔を見た。コナンは相変わらず、花を見ながら続けた。
「人には花の気持ちがわからないから、首飾りにされたがってる花ばかり選んで摘むことはできないけど。もしもわかったら、そうしてあげられるよね。でも、実際にはできない……」
そこで蘭はハッとした。この前自分が『花を摘むと悲しくなる』とコナンに言ったことを思い出した。その理由を、自分ではちゃんと言葉にすることができなかったが、今、コナンがそれを言葉にしてくれた。まさに、その通りだった。だから、悲しいと感じた。
「花の気持ちは理解してあげられないけど、人の気持ちは理解できる。ボク、わかったよ、蘭姉ちゃん」
コナンは、立ち上がり、蘭に向かい合った。
「蘭姉ちゃんこそ、ボクを助けてくれてありがとう。嬉しかったよ」
コナンがそう言うと、そこに咲くどの花よりも美しく、蘭は笑った。

蘭は、守られることだけを望む宝物ではなかった。自分の持つ力を使いたいと望んでいた。自分の持つ力で、他を守りたいと、他を助けたいと思っていた。そして今回、自分が力を発揮して得た結果に喜び、それを許したコナンに蘭は感謝したのだ。
蘭が自分を助けてくれたことは、腹立たしいことでも、情けないことでもなかった。
何もさせず、ただただ傷が付かないように大切に守りたいというのは、自己満足でしかなかった。それは蘭に対してだけではなく、親しい人たちに対してもきっと同じことなのだろう。『頼れるのは自分だけ』という思い込みは、あるいは侮辱だったのかもしれない。
でも、とコナンは心の中で呟く。
蘭の力を頼れるように、蘭が力を発揮できるように、蘭を守り続けよう。












2003.3.28